小説エマ2 久美沙織 [#地付き]口絵・本文イラスト/森 薫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)幻燈《げんとう》装置 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)金色|格子《こうし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] [#地付き] 本作品中に一部、差別的と解釈される箇所がありますが、 [#地付き]これは歴史的な事実を表現するために使ったのものであり、 [#地から2字上げ]差別を助長する意図は全くないことをここに記します。 [#改丁] [#ここから3字下げ]   目 次 [#地から5字上げ]21行  序 [#地から5字上げ]35行 第六話 水晶宮 [#地から5字上げ]176行 第七話 家族 [#地から5字上げ]751行 第九話 晩餐会のエレノア [#地から5字上げ]1749行 第十話 さよならエマ [#地から5字上げ]2132行 『小説エマ2』を書くにあたって●久美沙織 [#地から5字上げ]2899行 解説●北原尚彦 [#地から5字上げ]2946行 イラストあとがき●森薫 [#地から5字上げ]2982行 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma " Prologue "  序 [#ここで字下げ終わり]  復活祭《イースター》の動物園は大盛況だ。すこぶるにぎやかに華《はな》やいでいた。  リージェントパークの途中から、動物園はあちらです、あちらです、あちらですからお間違えなく、と、やたらしつこく看板がでている。この期間の特別の催《もよお》しを狙って生まれてはじめてここに遊びに来るおのぼりさんのためだろう。今日は朝から天気も良く、家族連れ親子連れもカップルも、ひときわ多いかもしれない。  動物学協会の研究機関としてはじまった|ロンドン動物園《ズーロジカルガーデンズ》には、世界じゅうから集められたあまたの生き物が展示されているが、今日のような日には、檻《おり》の内側の本来見物される側と、外側にいる見物する側と、どちらが多いかわかったものではない。  春遅い英国にもいよいよ物みな目覚める季節が到来し、心浮き立つ復活祭である。通路や動物展示のあちこちにはカラフルな塗装《とそう》や装飾《そうしょく》をほどこした卵が飾ってあって、ちょっとした卵祭りの様相《ようそう》を呈《てい》している。  ダチョウの卵、クジャクの卵、ペリカンやフラミンコやツノメドリの卵にまさって、たまに、サルやライオンやカバの卵と称するものまでが披露《ひろう》されているのは動物園側のジョークだ。もちろん見るからに怪《あや》しげな張りぼてのつくりものばかりなのだが、金ぴか斑《まだら》のゾウの卵の、これでもかといわんばかりに豪華絢爛《ごうかけんらん》で巨大なことといったら!  ジョーンズ家の末のコリンはショックのあまり全身を棒のようにしてその場に立ち止まってしまった。 「すごいでしょ」  ヴィヴィアンは悪戯心《いたずらごころ》を起こし、弟の耳元にしゃがみこむと、ささやいた。 「ゾウの卵はこおんなに大きいから、百人分のオムレツがたった一個でできるのよぉ」  コリンは面食らい、横目でヴィヴィアンを見、助けを求めるようにグレイスやハキムを見、またヴィヴィアンを見た。 「なによ。あたしが嘘《うそ》をついたとでも?」 「英国のゾウは卵から生まれるのか。かわっているな。インドには、ガネーシャといって、ゾウの顔をした神もいるのだが」ハキムは目を眇《すが》めた。「ガネーシャ神は、シヴァ神の奥方であられるパールバティの息子だ」  ハキム・ガールズが、そうだそうだとうなずく。 「どうしてゾウなの、ハキムさま」ヴィヴィアンは目をぱちぱちさせた。「神さまの息子さんなのに、へんなの」 「ヴィヴィー、失礼よ」グレイスがあわてて口をはさんだが 「ある時」ハキムは眉《まゆ》ひとつ動かさず、熱心に聞いているコリンの顔をのぞきこむようにして続ける。「パールバティが水浴をしようとして、ガネーシャに見張りを頼んだ。頑固なガネーシャは、父神までも通せんぼをした。怒ったシヴァ神が、首を切り落とした。(ヒッ、とコリンが首をすくめる)可愛い息子になにをする、と妻があまりに怒るので、シヴァ神はしかたなく手近にあった別な頭を取って替わりにくっつけたのだが、後から見ると、それがゾウだった」 「……へぇ!」ヴィヴィーは感心してさかんに首をひねった。「ずいぶん杜撰《ずさん》な選びかたをしたのねぇ」 「ヴィヴィー!」 「あわてたのだろう。ちなみにガネーシャ神の乗り物は、なぜかネズミと決まっている。ガネーシャの牙が一本折れているのは、月夜の晩にいきなり目の前を蛇《へび》に横切られてビックリしたネズミが主人を振り落としてしまったからなのだそうだ」 「ほらほら」もう我慢ならないとグレイスは、片手にヴィヴィアン、片手にコリンの手をつかんでギュッと引き寄せた。「ふたりとも、気をつけて。ひとにぶつかるわよ。こんなに混んでるんだから。お願いだから、はぐれないでちょうだい」  失礼しちゃう、とヴィヴィアンは思った。赤んぼコリンなんかといっしょにされるなんて。わたしは十二歳、舞踏会《ぶとうかい》や晩餐会《ばんさんかい》につれていってもらえるようになるのはまだ今年ってわけじゃないけど、もうほとんど淑女《レディ》なんだから!  首がちょん切られるお話にわくわくするよりブルブルする、弱虫コリンなんかとは、ぜんっぜん、違うんですからね。 「ごめんごめん」  いつの間にかどこか先のほうまで行ってしまっていたらしいウィリアム兄さまが、足早に戻ってきた。 「さすが復活祭、すごい人出だねぇ。もうちょっとで、みんなとはぐれて迷子になっちゃうところだった」  金髪を光に透《す》かして耳を掻《か》き、暢気《のんき》な顔で笑っている。  おにいさまったら。  ヴィヴィアンはまじめな顔を作ろうとした。  冗談《じょうだん》になってない。ウィリアム兄さまの場合、ほんとに正真正銘《しょうしんしょうめい》、迷子《まいご》になりそうなんだもの。おとななのに。立派な紳士なのに。最近は特に、なにかっていうと、ぼーっと考えごとばっかりしているし。  だがそのウィリアムが同行してくれなければ、今日、ここに、来ることはできなかったのだった。  先週、いつもの散歩コースで、隣町のお医者のキングスリーさんの家のこども達が、復活祭には動物園に卵をさがしにいくんだよね、おとうさまがつれていってくださるんだよね! と、声高《こわだか》に自慢げにおしゃべりをしてみせているのと擦《す》れ違《ちが》った。あきらかにコリンやヴィヴィアンの耳にはいるように、わざと大きな声で、子守《ナースメイド》に確認するふりをして、言ってきかせたのである。  いいなぁ。楽しそう! ヴィヴィアンのあこがれと好奇心は猛然《もうぜん》と膨《ふく》らんだ。  あたしたちもつれていっていただけませんか。ためしに訊《たず》ねにいくと、父は、あきれたような顔をして、まじまじとヴィヴィアンを見返した。思わず目を逸《そ》らし、うなだれたくなってしまうようなその目つきで、なにも言われないうちからもう、ああ駄目《だめ》だ、おとうさまはそういうのはお嫌いなのだから、とわかってしまった。  父は静かに言った。混雑するにきまっている時期の、混雑するにきまっている場所にわざわざ出掛けていきたがるなど、ちょっとどうかしているとは思わないか。そのような享楽《きょうらく》的な出し物や品のない場所や環境は、我が家のような家庭にふさわしいものとは思われない。  あくまで静かな、でも、ぜったいに譲《ゆず》らない決意の固い表情のまま言って、その件はもうそれで終《しま》いだという動作をした。  父の部屋から戻り、ヴィヴィアンがしょんぼりしていると、付《つ》き添《そ》ってきてくれた乳母《ナース》や侍女《レディスメイド》たちが……きっとドアのところで聞き耳をたてていたのだろう……口々に言った。  動物園なんて、若い娘さんが行ったって面白いところじゃありませんよ。第一、どこの誰が来るかもわからないようなところなんかに出掛けて行って、万一へんな病気でも伝染《うつ》されたらどうします。人込みにまぎれて悪ものに攫《さら》われでもしたらどうするんです。そうですとも、お嬢さまみたいなきれいな女の子は、悪党や海賊《かいぞく》が喉《のど》から手が出るほど欲しがるんですから。麻袋につめられてぐるぐる巻きにされて汽船で運ばれて売られていったら、二度とおうちに戻ってこれなくなるんですよ、などなど。  そのようなことになってしまった場合のロマンティックにして壮大な冒険物語を、ヴィヴィアンは、自分のベッドに腹這《はらば》いになって、じっくりたっぷり空想してみた。うっとりした。正体不明の世紀の怪盗と、実はさる国の世継《よつ》ぎであるたくましい船長が、自分を奪《うば》い合《あ》って決闘をし、それがきっかけになってあっちの国とこっちの国が大戦争になってしまうあたりまで想像したところで、疲れてやめた。まぁ、とりあえず、いますぐ是非《ぜひ》とも攫われなきゃならないわけでもないわ。  あきらめきれないので、グレイスに愚痴《ぐち》った。 「キングスリーさんちでは、おとうさまが、たまに、こどもたち全員を遊びに連れてってくださるみたい。そういうの、うちでは、ありえないわよね」 「そうね。あのお宅では、使用人をあまり大勢は雇《やと》っていらっしゃらないみたいだから」姉は言った。「一家のあるじであるお父さまが、小さなこどもの面倒までみないとならないなんて、お気の毒ね」  姉の感想はヴィヴィアンのそれとは微妙に違ったのだが、そういうことは、口にしないでおくことにした。 「おとうさまと一緒じゃなくてもいいのよ。お姉さま、連れていってくださらない?」 「そうねぇ」グレイスは困ったような顔で微笑《ほほえ》んだ。「あなただけ連れていったら、コリンが可哀相《かわいそう》だし。コリンも連れていくとしたら、わたしひとりではちょっと荷が重過ぎるわ」  たぶんダメだろうなと思いながら、なにやら難しい顔で新聞をのぞきこんでいる時をねらって、ウィリアムにも訊ねてみることにした。ねぇ、ウィリアム兄さま、兄さまはお仕事お忙しいんですよね、又、あたしたちとおでかけなんかしてくれませんよねぇ、とさぐりをいれてみた。 「お父さまにも、ダメだって言われたんだけど……」  兄は持ち上げかけていたコーヒーカップを空中でとめた。 「父さんがどう言ったって?」 「復活祭に、動物園に行きたいって言ったら、それは我が家にふさわしいことじゃないって」 「動物園ぐらいいいじゃないか」兄は新聞をせかせか畳《たた》んだ。「可哀相に。わかった、僕がつれていく」 「えっ。ほんと、兄さま!?」 「ああ。行こう」  普段ちょっとハロッズまで付き添ってくれないかと頼んでも、そのうちとかアーサーに頼めとか逃げてばかりいるのに。たまにはこんなこともあるのだなぁ、言ってみるものだ、とヴィヴィアンは思った。  たぶん兄はハロッズよりは動物園のほうが好きなのだろう。乗馬好きで、うちの馬たちにも優しいし。散歩のとき、よそのお宅の犬さんにあうと、いつもニコニコしてるし。  もしかすると、毎回毎回、妹の頼みごとやおねだりをすげなく断り続けていたのを、少しは悪いと思ってくれたか。買い物に延々付き合わされるよりは、エキゾチックな生き物の顔でも見るほうがましなのかもしれない。  ともかく嬉しい!  家に閉じこもって善《よ》い子《こ》にしていたって退屈なだけ。おしゃれをして、おでかけして、何でも見たい、聞きたい。もっとわくわくしたい、どきどきしたい。  期待に違《たが》わず、復活祭の動物園は、華やかに賑わっている。  さまざまな大道芸人たちが特別に園内に招き入れられて芸を披露《ひろう》していた。等身大のハンプティ・ダンプティがおなじみのおかしなやりとりをしている横を、ものすごく大きな車輪の一輪車にのった道化が色とりどりの卵をジャグリングしながらジグザグに走りぬける。路面画家が描く色とりどりの素敵な絵に、通りすがりのひとびとが足をとめたり、コインを投げてやったりする。竹馬をはいて恐ろしいほどの背高のっぽになったひとが、のそり、のそり、と歩きながら風船を配り、色とりどりの衣装に危険なほど情熱的なまなざしの少年たちが、チームを組んでみごとな曲芸や輪まわしをしてみせている。  目にはいるものすべてが、不思議で、魅力《みりょく》的で、あざやか。ヴィヴィアンは楽しくて嬉しくて、からだがふわふわしてきた。わぁっと声をあげたいほどだった。興味を惹《ひ》かれるものにはほんとうは今すぐ駆け寄っていきたいぐらいなのだが、さすがにそれは、あまりにもこどもっぽすぎる。弟のコリンの手前もあるので、気になるものの方角にちらっと目をやるだけで堪《こら》えていたが、だんだん我慢がつづかなくなって、気持ちがそわそわしてきた。なにしろへんなもの、見たいものが、あまりにたくさんありすぎる。おかげで目玉はきょろきょろしっぱなしだ。  さまざまな大きさのイースターエッグを山盛り載《の》せたワゴンをイースターウサギの扮装《ふんそう》をした芸人たちがおおぜいで牽《ひ》いてきて、ジョーンズ家の家族のそばでも立ち止まり、ひとつ買わないかともちかけた。カラフルな卵は、単に殻がとてもきれいなだけのゆで卵かもしれないし、中になにか特別に素敵なものを巧《たく》みにしまってある秘密の卵かもしれないのだそうだ!  巧みな口上の文句に、ウィリアムが気乗りしなさそうにいらないよと手を振る。ハキム・ガールズはひょいひょいと卵を手にとって、投げあげてみて、ウサギたちをあわてさせている。  そのワゴンの卵も一個ぐらい欲しかった。運試しに買ってもらいたい気持ちもやまやまだったが、せっかくのイースターなのだ。それよりむしろ、どこかに隠されているはずのイースターエッグを見つけたい。さがしてみたい。  そんな来園者たちの当然の希望に応えるべく、園内には卵捜《たまごさが》しクイズが設けられている。  まず、順路沿いに散らばっている立て看板を見つけたら、よく読んで覚えなければならない。そこには卵に関する秘密がなにか書いてあるからだ。やがてどこかにある特別のスポットにたどり着くと、卵に関してどれだけ理解をふかめたかを確かめる係の謎《なぞ》のエッグマンが登場するらしい。そこでエッグマンに出された試験に通ったら、特別の秘密のイースター・ゲートを潜《くぐ》らせてもらえる。ゲートの中には素敵な生《い》け垣《がき》や砂場や池があって、お待ちかねイースターエッグがやまほど隠してあるのだ!  まぁ、なんて幼稚《ようち》なこどもだまし! そんなとこに入って、卵を捜して地面を這い回ったりなんかしたら、きっとすごく汚れて、けだもの臭くなっちゃうわね!  ──と、ヴィヴィアンは、家族たちに憤慨《ふんがい》してみせたが、それは、ほんとうは、なんて素敵な催しだろうと思ってしまっていて、できたらやってみたくてたまらなくて、でも、そんな気持ちを持っていることは是非とも隠しておかなければならなかったからだった。  どうせだめだ。許されないに違いない。自分はジョーンズ家のお嬢さまなのだし、今日は復活祭用のよそ行きまで着ているのだから。  ああ。  いつもじゃないけど、たまには、キングスリーさん家《ち》みたいなおうちのこどもに生まれてみてもよかったかもしれないと思うこともあるわ……!  つながされた手をコリンにぐいぐい引っ張られて、なにかと思うと、卵型の看板が、樹のあいだに隠してあるのだった。コリンも、こどもらしく、卵クイズに夢中なのだ。うんちくの第七番目というやつがしるしてある。 「卵嘴《エッグトゥース》とは」と、そこの看板には書いてあった。「雛《ひな》の上嘴《うわくちばし》の湾曲部にある突起のこと。これで卵殻を内側から壊して艀化《ふか》する。艀化後一日か二日で脱落してしまうので、観察できるチャンスは逃《のが》さないようにしよう」 「メモをしておいたほうがいいんじゃないの」ヴィヴィアンは姉として冷静なところを示してみせた。「コリンは、ぜったいこんな難しいの、覚えてなんかおけないもの。次の看板みつけて読んだら、こっちはもう忘れちゃうでしょ?」  コリンはせつなげにヴィヴィアンを見上げた。ジョーンズ家の淡みどりの瞳《ひとみ》に、まつげが長い。 「なによ。お帳面もってないの? なにかちょっと書き留めておける紙とか?」  コリン、こくんとうなずく。 「しょうがないわねぇ」  顔をしかめてみせたヴィヴィアンであったが、そういう彼女自身もじつは役に立つものを何も持っていなかった。  姉のバッグにはたぶん訪問力ードがはいっているだろう。そしたら、それの裏がつかえる! 兄は最新流行の泉《ファウンテン》ペンとかなんとかいう便利な筆・記具を携《たずさ》えてきているかもしれない。いざとなったらハキムさんかお付きの女のひとたちの誰かがどうにかしてくれるだろう。だったらいいなと思いながら、ちょっと待ってなさい、と言い置いて木陰を出た。とたんに、たまさか通りがかった誰かにどんと弾《よじ》かれ、尻餅《しりもち》をつかされてしまった。  どこかの学校の寮生だろうか、次兄のアーサーぐらいの年頃の少年たちの一団……白いシャツにごく細いリボン・タイをして、何人かは学者風のケープをまとっている……が、ひとかたまりになって走っていくところにぶつかってしまったのだった。  驚きと恥ずかしさに、たちまち涙が湧いてくる。 「……い……痛ぁい……」 「すみません、お嬢さん!」疾風《はやて》のように駆け抜けていこうとした少年の後尾のほうにいたひとりが、サッと手をのばしてヴィヴィアンを立たせた。「あんまり急いでいたものだから。どうか許してください……ああ、もう行かなくちゃ、はじまっちゃう」  はじまっちゃうって、なにが?  ヴィヴィアンが聞き返そうとした時には、少年は帽子《ぼうし》をちょっとずらして挨拶《あいさつ》をすると、サッと身をひるがえし、また走っていってしまった。が、答えはすぐにもたらされた。 「ペンギン・ショウ、ペンギン・ショウ!」  会場を歩き回っている制服の係官が大声で言って通った。 「二時の回が、まもなくはじまりまぁす!」  ペンギン舎はこの春改装されたばかりの目玉のひとつで、裏にこぶりのステージを有していた。一日に何度か、訓練されたペンギンたちが揃《そろ》って芸を見せるのだ。合図にしたがって、並んで歩いたり、泳いだり、台にのぼったり、滑ったり。競走してみせたり。たまにできの悪いのがいて、仲間たちの動きについていけず、おたおた遅れてしまったり、ただぼーっと関係ないところで立ち止まったりしているだけなのもまた可愛らしいと、なかなかの評判なのである。  ずいぶん混み合っていたが、ジョーンズ一家は観客席のベンチの中央最前列に陣取ることができた。席を割り振っていた係官が、何も言わなくても、取って置きのいちばんいいところの綱を取り払って、座らせてくれたのだった。  わたしを、ひとめでレディと認めてくれたんだわ。尊重してもらえたんだわ。と思うと、ヴィヴィアンは気分がよくなり、大好きなドレスがさっきの転倒でいったいどうなっているか、どのぐらい汚れてしまったのか、とりあえず考えないことにしようと思うことができた。  ショウがはじまるのを待つぽっかりとした間に、ウィリアムはコリンにペンギンのことを教え、ハキムが時おり無関心そうに合いの手をいれた。グレイスはバッグから編み物をとりだした。 「ペンギンの名前のもとになった『ペングウィーゴ』というのは」ウィリアム兄が言った。「オオウミガラスという別の鳥のあだななんだよ。スペイン語で、太っちょ、みたいな意味だね。名前のとおり、ずんぐりむっくりした飛べない海鳥だ。大航海時代にはじめて南半球にいったヨーロッパ人が、ペンギンを見て、これはたぶん自分たちの知っているオオウミガラスと同じものだろう、って、勘違いをしたんだね」 「コロンブスとかマルコ・ポーロとかアメリゴ・ベスプッチとか、あのへんの連中だな」と、ハキム。「地球半周もずれている場所を我が偉大なる我がインドと勘違いしたくらい|だ《※1》[#※1/アメリカ大陸の発見のこと。西インド諸島、インディアンなどの命名はこの勘違いによる。]。ちょっと太った鳥ならぜんぶそのなんとかガラスだってことにするのだろう」 「まぁね。なにしろオオウミガラスとペンギンの見た目は、そうされても無理ないぐらいにそっくりだったんだ。そう、だった。過去形でいうのは、今世紀の中|頃《※2》[#※2/正確には1844年。]、アイスランドかどっ|か《※3》[#※3/正確にはエルディという岩礁地帯。]で最後の群れが捕りつくされて、もう絶滅してしまったからなんだけど」 「絶滅した?」ハキムは片目をすがめた。「もう、いないのか。君はなぜそんなに詳しく知っている」 「水晶宮《クリスタルパレス》だよ。剥製《はくせい》が展示されていたんだ」 「ほお? ドードー鳥ではなくか?」 「ドードーの隣にあった。あの、万博でも目玉のひとつだった有名な剥製の、すぐ隣にね。でも、知ってるかい、ハキム、あれはただの作り物にすぎないのだということを。オクスフォードに残ってた絵や骨をもとにして、他の鳥の羽根をつかって、たぶんこうだっただろうと思われる姿を復元しただけの哀《あわ》れな贋物《にせもの》なんだよ」 「ほお」  兄たちはすっかり自分たちで話しはじめ、コリンもヴィヴィアンもただ耳をすますばかりだ。 「オオウミガラスのほうは、ちゃんとほんとうに詰め物をした剥製だったんだけれど、……それはそれは地味な展示でね。誰もろくに足もとめないんだ」  ウィリアムはため息をついた。 「ドードーは紀元1600年ごろにはもうかなり少なくなっていて、ぼくらにはもう手のくだしようもなかったわけだけれど、オオウミガラスのほうは借《お》しいところだった。もうちょっとだけ早く気づくことができたら、なんとか守れたかもしれない、絶滅が防げたかもしれないのに、だめだった。……それは、まさに……その万博をやったような、われわれ英国人の収集癖やら博物学趣味やらのせいだ。そう考えると、すこぶるせつないものがあるとは思わないか? なまじ、珍しいとか貴重だとか言って集めたがって、標本やら剥製やらにどんどん高値をつけてしまったから、乱獲された。誰も滅ぼすつもりなんかなかったのに、気がついたら、うっかり捕りつくしてしまっていたんだ」 「どうせ滅びる運命《さだめ》だったのだろう」ハキムは表情を動かさない。 「だから哀れむ必要などない。気の毒でないとは言わないが、ひとにできることもできないことも、神のそれの前には塵も同然だ。そもそも、居なくなればいいのにと思うような輩《やから》にかぎって、なぜか丈夫で長生きで孫子の代まで栄えはびこる」 「オオウミガラスっていう鳥は、もともと、やたら鈍《にぶ》くて暢気《のんき》でいくらでも簡単にとれたらしい。食用に、羽毛布団用に、そして研究用に、さんざん捕られて捕られて、捕られまくって、とうとういなくなってしまった。彼らは人間が……人類という集団が……商業目的で根絶してしまった最初の生物なんだって」 「ほお」 「というようなことも、なんのことはない、万博の展示に書いてあったんだ。物見高い気持ちで出掛けてゆかなければ、知ることはなかった」 「ほお」 「……その、『ほお』っていうのやめてくれないかな。なんだか恥ずかしくなってくるから」 「ほお」  ウィリアムは拳闘の真似《まね》をしたが、ハキムは巧みにひょいとかわし、友の腕を逆手《さかて》に取った。眉も動かさずに。 「ちなみに」とインドの王子は言った。「ペンギンという剽軽《ひょうきん》な生き物は、見つけたばかりの頃、羽の生えた魚だとか、鳥と魚のあいのこだとか、すこぶるいいかげんなことを言われたのだと聞いたことがある。わたしに言わせてもらえば、それは、キリスト教のせいだ。信仰深いみなさんは、金曜には肉を食べてはいけないという教えを守っている。魚ならかまわん。魚なのだということにしておけば、食べてもかまわない。だからペンギンは魚になったんだとわたしは思う」 「へぇ! じゃなくて、ほ〜お」  十分前になると徐々にひとが集まりはじめ、五分前に案内係が大声で呼ばわると、急激に増え、どんどん混み合ってきた。  ふと、ヴィヴィアンは脇腹をぐいぐい押されるのを感じた。六、七歳ばかりの女児とその弟らしいのが、ヴィヴィアンのからだを肘《ひじ》で小突いて、無理やり隙間《すきま》に押し入ろうとしているのだった。みごとな縦ロールの金髪巻き毛に、グリーナウェイ・ドレスとフォントルロイ・スー|ツ《※》[#※グリーナウェイ・ドレスは、ケイト・グリーナウェイ(1846〜1901)が好んで描いたこども画のキャラクターのような、ハイウエストでパフスリーブの外出着。フォントルロイはバーネット「小公子』(1886年)の主人公セドリック・エロルの爵位名(伯爵)で、この人気作品の挿絵に描かれた衣装を真似たベルベットのスーツスタイル。当時の中上流階級の男児の一大流行ファッションとなった。]。どちらもおろしたてでぴかぴかだ。復活祭のお出かけに、こんな最新流行の晴れ着を着せてもらったこどもたちだ。豊かな家の子なのだろう。  子守《ナースメイド》はどこにいるんだろう? きっと、こんな上等な席にくるのは気後《きおく》れして、後ろのほうに残ったのだ。  ウィリアム兄さまがつれてきてくれて良かった、と、ヴィヴィアンは思った。 「ねぇ、お嬢ちゃん」  ヴィヴィアンは年かさの女の子のほうの腕をそっとつかみ、顔をあげさせておいて目をのぞきこんだ。 「割り込みをしたいなら、こちら掛けてもよろしいでしょうか、とか、いれてくださいませんか、って、おっしゃい」  女児は驚いたように目をみはり、口をぽかんとあけた。  ヴィヴィアンはとびきり美しくにっこりと笑ってみせた。 「それが淑女《レディ》というものよ」  女児は無言で手をふりほどき、ツンと鼻をそらし、弟を連れて退散した。  ステージ上に、ペンギンたちがよちよちと列をつくって登場してくる。客席から陽気な笑い声があがる。  黒と白の二色に塗り分けられた太っちょで飛べない鳥たちは、別の時代には、燕尾服《えんびふく》を来た紳士にたとえられる生き物なのだった。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma 6 "The Crystal Palace"  第六話 水晶宮 [#ここで字下げ終わり]  四月の庭は恩知らず。種蒔《たねま》き、間引き、肥料やりと、いくら心を込めて丹精しても、ほんの一晩の油断で元も子もなくしてしまうことが少なくない。そんな時に限ってひどい遅霜《おそじも》がおりて、せっかくの芽生えや双葉、蕾《つぼみ》のかすかなふくらみなどを、みなだいなしにしてしまうのだ。  ふだんは庭の眺めの|良き飾り《フォーカル・ポイント》であるガラスの霜除《クローシュ》や、テラコッタ製のルバーブフォーサ|ー《※》[#※ルバーブフォーサー/ジャムなどの材料にするルバーブを促成栽培するための容器。ずんぐりした壺型に、とがったつまみのあるドーム型の蓋をかぶせる。]が、見た目の愛らしさよりも、実用性を発揮する時期だ。  エマは、裏庭の花壇《かだん》の縁《ふち》にしゃがみこんで、立ち並んだ草花の茎の合間にむけて、せいいっぱいに腕を伸ばしていた。  ピンクスイセンの新芽のひとつが、枯れた落ち葉を突き抜けて伸びてしまい、窮屈《きゅうくつ》そうに縮《ちぢ》こまっている。取り除いてやらなければ、元気をなくしてしまいそうなのだ。かといって、ずかずか入り込むのはためらわれる。スイセンやクロッカス、チューリップなどの春の花たちはたいがいもう顔をみせていて、避けることができるから良いようなものだが、柔らかくよく耕された土のすぐ下には、百合《ゆり》やグラジオラス、カンゾウ、ヤロー、キングサリ、リュドベキアなどなど多数混在する夏の花々が、地面があいて順番のくるのを辛抱強《しんぼうづよ》く待っているのだ。へんなところを踏みつけて、だめにしてしまっては可哀相《かわいそう》だ。  ふう、とエマはため息をついた。  素手《すで》ではどうにも届かない。しかたないので、立っていって手頃な小枝を捜《さが》した。いらない時にはたくさん落ちているのに、こういう時にはなかなか見つからない。なまじ、心配りの行き届いた掃除《そうじ》をしてしまっているからかもしれない。  裏木戸のそばでようやく良さそうなのを見つけ、拾って、戻った。もう一度しゃがみこんで、それを伸ばし、そっと何度かつついてみると、乾ききって薄紙のようになっていた茶灰色の枯れ葉はこなごなになって散った。縛り留められていたスイセンは、自由になるや、はらりと広がった。それで、ちいさな、色づきかけの蕾が葉の重なりの中に隠されていたのがわかった。  きっと立派に咲いてくれるだろう。スイセンの盛りは、二三週間先だろうか? たくさん咲《さ》き揃《そろ》ったら、奥さまのテーブルに飾ろう。  安堵《あんど》して、裾をさばきながら立ち上がりかけたとき、ふと、目の隅《すみ》、たっぷりしげった葉群の陰に、なにか思いがけないものを見つけた気がした。  エマは、またそっと姿勢を低くしてみた。  あ、と思った。  シュッと長く伸びたかたちの葉に、見覚えがあった。特徴があった。この草はひょっとするとスズランではないだろうか。もしもそうだとすると、あの、かすかに見える小さな白いものは、スズランの名の由来である吊りさがって並ぶ鈴型の花の蕾がまだたがいにギュッとくっつきあっているところなのではないか。 「……まぁ」  思わずひとりごとをつぶやいて、庭の隅の道具箱《シェッド》から、先細の移植鏝《いしょくごて》を取ってきた。  根を損ねないように注意深く掘りあげる。庭じゅう見回して考え、結局、古い楡《にれ》の木の根本のほうに植えた。あまり日当たりの強いところに移すとびっくりしてしまいそうだから、一日の半分は木立と家の影にすっぽりはいってしまうような、そんな場所に。 「どこからきたの」エマはスズランかもしれないちいさな花に話しかけた。「気がつかなかった」  まだあまりスズランらしくは見えない花は、あるかなきかの風にそっと揺れた。大きくなってくれるといい、とエマは思った。スズランは、とても良い香りだから。たくさん増えてくれるといい。純白の清楚《せいそ》な花を、奥さまは好むはずだから。  庭の隅にひとつたのしみができた。  頬《ほお》がほころぶような気持ちでエマは立ち上がり、そろそろキッチンに戻ろうと、向きをかえた。と。 「こんにちは!」  裏木戸をあけながら、はいってくる見知らぬ少年があった。帽子《ぼうし》をとって挨拶《あいさつ》しているので、エマも黙礼を返した。  少年の透き通るような白い顔には、パン生地にケシの実を散らしたようにこまかな雀斑《そばかす》がまぶされている。若者というよりはまだこどもに近い体格ながら、グレイの地が陽差しの加減で優雅な臙脂《えんじ》色に輝く上等な上っ張りを身につけ、繻子飾《しゅすかざ》りのついたズボンをはいている。 「少々ものをお尋ねいたします。リトルメリルボーンストリートの122は、こちらでようございましょうか」 「はい」  年齢の割にいささか古風なもの言いは、教わったそのままを暗唱しているのだろう。 「ジョーンズ家から参りました使いのものです。あなたがエマさんですか?」 「はい」  ジョーンズ家? エマの胸はどきんと打ったが、少年のほうも、ああ良かった、とみるからにほっとしたような顔になった。 「お手紙です。はいどうぞ」  このページボー|イ《※》[#※ぺージボーイ/テーブルの給仕のほか、家の中や外ヘメッセージを届けたり、主人の家族や客が通るドアを開けるなど、こまごまとした使い走りを行う。年若い少年が多かった。]は、ジョーンズ家の園丁《ガーデナー》の息子で、十五歳になるジェシーであった。双子の兄のギャビーは馬の世話や馬車や狩猟《しゅりょう》の差配を担当している。ジェシーは、将来をまだ決めかねている。親に倣《なら》って庭仕事に腕をふるうようになるか、フットマ|ン《※》[#※フットマン/テーブルの給仕と客の応対を主な仕事とする男性の家事使用人。]など、屋根のある館の内部で主に働くものになりたいのか。もしかすると、ジョーンズ家を出て、どこかよそに奉公することになるかもしれない。遠い将来のことはまだわからない。とりあえず今は、親の監督のもとで暮らしながら、主家のために細々とした用を足して、ご奉公の仕事をするとはどういうことなのかを学んでいる最中だ。  この日は、ウィリアムさまの親書の配達という光栄な任務を、はじめてひとりでまかされた。自分のようなものが間違いなくお役にたって、期待にこたえることができるのか、もし道に迷ったり手紙をおとしてしまったりしたらどうすればいいのか。少々不安に思いながら道々急いできたものだから、目的のひとに肝心なものを手渡して責任を果たすことができて、肩の荷がおりた。  それにしても……  エマさんは、眼鏡をかけたメイドさんで、とてもきれいなひとだから。似たようなひとはめったにいないから、間違えっこない。  ウィリアムさまの言った通りだ、とギャビーは思い、自分のしごとぶりに満足し、ではさようなら、と元気よくさっさと踵《きびす》をかえした。  だから、受け取った手紙の表書きの文字に目を落としたエマが、たちまちその頬を染めるのに気づきはしなかった。  ──ハムステッドヒース南のウィリアム・ジョーンズより、リトルメリルボーンストリート、ストウナー邸のエマさまへ  親しきエマさま  このように急な便りなどさしあげて、いったい何事だろうと貴女《あなた》を心配させてしまったとしたら、弁明のしようもありません。不躾《ぶしつけ》なふるまいをどうかお許しくださいますように。  もし宜《よろ》しければ、来週あたり、水晶宮《クリスタルパレス》までご案内させていただけませんでしょうか。ご存知と思いますが念のために申しますと、水晶宮はロンドンから南に下ったシドナムの丘にあります。興味深い展示物や世界じゅうの珍しいものがあり、一日居ても退屈することはありません。建物そのものもなかなか見事です。  先日、復活祭《イースター》の折、家族とリージェントパークの動物園に出掛ける機会がありました。なかなか愉快《ゆかい》な一日でしたが、エマさんが一緒だったらもっと素晴らしかっただろうにと思わずにいられませんでした。  以前、エマさんに、お休みは、一週おきの木曜の午後だとうかがったことがあります。  貴重なお休みをこの僕にくださいとお願い申し上げるのは僭越《せんえつ》でしょうか。貴女にご迷惑をかけるかもしれないと思うと身も細る思いですが、蛮勇を奮《ふる》い立《た》たせてうかがってみることにいたします。もっともこ都合の良い日時をご指定いただけましたら、お住まいのお近くまで馬車でお迎えに参上いたします。水晶宮までは、ヴィクトリア駅から汽車で三十分ほどです。  明日、再びページボーイをやりますので、お返事をお持たせくださいますよう。よいお返事をいただけるよう祈念《きねん》しつつ。[#地付き]ウィリアム・ジョーンズ  エマはキッチンに立ったまま、手紙を二度読み返した。胸が高鳴り、唇《くちびる》が自然とほほえみのかたちになってしまっているのを感じた。  もとのとおりきちんと畳んで封筒にしまう。ポケットにいれようか、どうしようか。身につけておいて、うっかり汚したり濡《ぬ》らしたりしてしまったら悲しい。かといってそこらに置いておくわけにもいかない。しまっておこう。  最上階にある自室まで持ってあがろうと階段をのぼりはじめる。  手紙の文句が頭の中でリフレインする。美しいこだまのように。  途中でもう一度、確かに一字一句そうだったのかどうかを確かめたくなって、立ち止まった。  狭い階段の壁にもたれながら、薄明かりに透《す》かして読みかえしてみる。ちょっとだけ、気を落ちつけるために、ごく短く一瞬だけ走り読みするつもりだったのに、気づくとまた、全体を読み、読み返し、ゆっくりと味わっていた。  ……嬉しい。  ウィリアムの筆跡の特徴のひとつひとつを目が喜んでいる。大文字のmが少し他よりも大きいのが特徴だ。Mの曲線が白鳥の首のようにしなっていて、とても美しい。tの横棒やiの点がいちいち元気に勢いよく弾んで飛び出しそうなのが、彼のうきうきした気持ちや、それを隠そうともしない飾り気のなさを示しているようで好《この》もしい。  上質なブルーブラック・インクの落ち着いた色あいや、そのにじみ、ペン先が紙にひっかかったのだろう乱れまでが、ひとつひとつ、おもしろく、たのしく、愛《いと》しい。少しばかり癖《くせ》があるのは、この手紙をウィリアムの生きた手がじかに書いたに他ならない証拠だからだ。  この紙は少し前、彼のところにあった。過去の長い時間、彼のそばにあった。彼とともにあった。彼はこれに触《ふ》れた。  エマは手紙を掲《かか》げ、そっと顔の近くに寄せた。ごくかすかに、ウィリアムの匂いがするような気がした。煙草《シガー》と香水となにかのパウダー、エキゾチックな花か果物かなにかのような良い匂い。高級で上品で、清潔な匂い。彼のまとっている空気、彼の生きている世界の匂いだ。  手をおろし、手紙を持ったままそっと胸に押し当てた。  素敵なものをもらったと思う。  ふと、瞑《つむ》っていた目をあける。  見慣れた壁紙が目にはいる。彼女の大切な職域であるストウナー家の、くすんだピンクとセピアの小花模様の壁紙が。  いけない、とエマは思った。  思いがけないお誘いが嬉しすぎて、つい、ぼうっとしてしまった。  あなたはそこで、わたしはここで、わたしはいま仕事中。奥さまのために、働いていなければならない時間なのだ。  ひとつふたつ深呼吸をして、ふわふわした思いを振り切った。ていねいに封筒にしまいなおした手紙を片手に携《たずさ》え、もう一方の手でスカートをからげて、狭く急な階段を登った。  かまわない。  いま、うっとりしていられなくてもかまわない。  夢心地に浸《ひた》るのは、夜、床についてからでいい……。  だが。 『明日ふたたびページボーイをやりますので』  返事が必要だった。  明日の何時に使いがくるやら。お待たせしないように、いつ来られてもさっと渡せるように、なるべくなら今晩じゅうに結論を出して、返事をしたためておくほうがいい。朝はあわただしくてそんな余裕はないに違いない。夜眠る前ならば、少しは時間をつかうことができる。ゆっくり落ち着いて、きちんと、美しい文字で、丁寧《ていねい》に書きたいと思う。  どう返事をしたものか。  いやその前に、奥さまにどう言おう。ご許可をいただかなければならない。正直に胸の内をすべてお話しして、ご相談したほうがいいのだろうか。でもそれは恥ずかしい。顔が熱くなってしまいそうだ。  気がつくとエマは一日じゅう、考えこんでしまっていた。あまりに考えてしまって、嬉しいはずなのに重苦しい気分になったぐらいだ。  仕事に集中しているつもりでも、ウィリアムの手紙の文句のあれこれが不意に脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》ってきては、エマの真面目《まじめ》で働き者の手をも、いきなり止めてしまうのだった。  ご案内させていただけませんでしょうか。  エマさんが一緒だったらもっと素晴らしかっただろうにと。  手紙そのものは箪笥《たんす》のひきだしに、ウィリアムの買ってくれたレースのハンカチと一緒にしまってある。きちんとしまったはずなのに、目に嬉しい響きの優しいことばたちは、そこから溢《あふ》れだしてきて、エマのそばを去らなかった。あたかもそれはウィリアムが口にして直接耳で聞いたものであったかのように、エマの鼓膜《こまく》にこだまして消えなかった。  させていただけませんか。  一緒だったら。  ありきたりの、日常的な、どこといって特別なものでないはずのことばが、なんだかとてもくすぐったく、優しい。一滴の水のしずくのように、とるに足らないものでありながら、ひとたびじっと眺めてみれば、この上もなく大切なもので、美しいもので、味わい豊かなものであるように思える。まるで、羽根でも生やして頭の周囲を飛び回っているかのように、単語たちはエマの周囲をひらひらした。視界にかすみでもかけるように、働くエマの周囲にはらってもはらってもまといついて、甘くて朗《ほが》らかな、少し酔ったような空気を醸《かも》しだした。  羽根の生えたことばたちに何度も何度も触れられて、エマ自身の背中にも、いつしか目にみえぬ翼《つばさ》が生《しょう》じたのかもしれない。なにやらいやに頼りなく身が軽く、爪先《つまさき》がしっかりと床を感じない。からだが宙に浮かんでいるかのよう。地に足がつかないとはまさにこのことである。  エマの異変を、ケリー・ストウナーは見逃さなかった。  いつもの椅子に座って読みかけた本をちょっと置こうとしたケリーは、居間の小卓のお気に入りの掛け布に本来なら不要なはずのプリーツが寄っているのに、ふと気づいた。賓客《ひんかく》用のテーブルクロスに寄せるような襞《ひだ》がついている。プレスする時に間違えたらしい。エマらしくもない。  へんだわね。  ケリーは眉《まゆ》をしかめる。  どうして突然、こんな間違いを?  と。  ちょうど部屋にはいってきたエマと、まっすぐに目があった。  とがめる眼差《まなざ》しを向けてしまったのだろうか。それとも見られたほうの心の中に後ろめたさでもあったのか。  エマは、さっとうなだれて視線を逸《そ》らした。  同時に、平手で一撃でもされたかのように頬を赤らめた。  ケリーは、おやおや、と眉をあげる。  エマは小箒《こぼうき》とちり取りを手にしている。足早に暖炉《だんろ》のほうに行ったかと思うと、炉棚《ろだな》に飾られた小問物をひとつずつ並べ替えながら埃《ほこり》をはらった。どことなく緊張をはらんだ横顔に、こちらの視線を意識している気配《けはい》がある。話しかけようとして、タイミングをはかっているのだ。 「エマ?」ケリーはざっくばらんに問いかけた。「どうしたの」  エマは小箒を取り落とした。 「なにかわたしに言いたいことでもあるんじゃない?」  落としたものを拾いながら、エマは、どう言えばいいか戸惑っているような、どこか救いを求めるような目で、女主人を見あげた。 「もしかして……ジョーンズ家の坊っちゃまと、なにかあったの?」 「…………」 「わかるのよね、これが」  エマは頬を真っ赤にして、一瞬、どこかに逃げだしたそうな顔をしたが、ぐっと手を握りしめ、我と我が身にがんばれと言ってきかせでもしたのだろう、ついに観念したようすで、エプロンの皺《しわ》をひっぱり、スカートや袖のよじれをなおし、きちんと身形《みなり》をととのえなおしてから、女主人の前に立った。 「奥様……お願いがあります」 「なにかしら」 「来週、お休みをいただけないでしょうか」 「来週ね」ケリーはうなずいた。「ええ、いいですよ。どうぞ」  エマはホッと息をついた。  それから、ちょっと眉をしかめた。あまりに簡単にことが運んだので、拍子抜けしたような、かえって少し心配になったような風情《ふぜい》に見えた。 「あの……すぐ戻りますから。あまり長い時間は、家をあけないようにいたしますから……!」 「半日でも一日でもかまいませんよ。どこか行きたいところがあるんでしょう?」  ケリーは無関心を装《よそお》って膝《ひざ》の本をひろげ、ぺージに目を落とした。 「私が足を怪我《けが》して以来、ずっと付きっ切りでがんばってもらったのだし。あなただってたまには息抜きをしたいでしょう。ゆっくりしてらっしゃい」 「……ありがとうございます」  ケリーはちらっと目をあげた。  エマは控《ひか》えめな仕種《しぐさ》でそっと胸を押えている。嬉しさのあまりに心臓が破裂しはしないかと心配でもしているかのように。顔色がすこし白い。頼みごとを言いだすのに、持てる気力のすべてを奮いたたせなければならなかったのかもしれない。  健気《けなげ》なエマには、お仕着せの黒サージのメイド衣装はあまりにも似合いすぎた。糊《のり》をきかせたエプロンは、よく漂白してあって純白でみるからに清潔だったが、もうずいぶん長いこと使っているものだから、少しばかり生地《きじ》がくたびれている。生真面目な表情と、止まることなく働く姿、ピンと背筋をのばして立つ姿勢は、なんだかあまりに堅苦しすぎ、清楚すぎ、禁欲的すぎた。  エマはまだ若い。若くて、美しい。人生でいちばん華やかな頃を、迎えつつある。  若さとは、奔馬《ほんば》のようなエネルギーではないだろうか? いかなる障壁をも越えて夢みること、時おり信じられないほど愚《おろ》かになること。そういうことをみな笑って許してもらえる貴重な猶予《ゆうよ》期間ではないだろうか?  この娘《こ》はそういうことを、まるで自覚してないみたいだけど、とケリーは思った。もったいない。  通り過ぎてから、あの時は惜しいことをした、ああしておけばよかったこうしておけばよかったと、悔やんでもしかたないのに。  少なくとも、たまの休日をのびのびたのしむには、もう少し、それらしい装いというものがあるはずだわ。 「ねぇ、エマ。衣装箪笥の上から二番めの棚に臙脂《えんじ》のモスリンがあるでしょう」 「はい?」 「貸してあげる」ケリーは読みかけの本のページに指をあてがっておいて、エマを見上げた。「着ておゆきなさい」  エマは驚いたように目をみはる。 「私が若いころのだから形は古いけど、ものはいいのよ。サイズはだいたいあうと思うわ。なんなら、縫《ぬ》い詰《つ》めるなりなんなりして調節してちょうだい。きっとあなたの瞳の色に合うから」  エマがまだぽかんとしているので、ケリーは、少しばかり笑ってみせた。 「……殿方と外出するのに服装は大切よ。それが好いた相手ならなおのこと」  翌週。肝心のその日。  エマとアルはストウナー家の玄関で向かい合って立っていた。 「それでは、いって参ります」 「ああ」 「奥様をお願いします」 「ああ」 「お茶菓子は、キッチンのテーブルに出してありますから……」 「いいから早く行きな」アルはむっつりと言った。「もう待ってるんじゃねぇのかい」  エマは頬を赤らめ、アルに背をむけて壁の鏡をのぞきこんだ。いつもの帽子《ぼうし》のリボンを取り替えた。借りたドレスの色にあうものを店で探し、つけかえてみたのだが、成功しているだろうか、どうだろうか? 些細《ささい》な違いがなんだか落ち着かない。指先でちょっと弄《いじ》る。何かがまだ気にいらない。鏡に顔を近づける。絹のリボンをちょっとあげてみて、またひっぱりおろし、横にずらす。 「無理だ。悪いが、それが限界だ」 「げんかい?」 「どう工夫しても、それ以上美人にゃならん」  面食らって目をぱちくり。やがて、ようやくアルにからかわれたのだと思い当たった。エマは赤くなりながら大きく深呼吸をして、背筋をのばした。服の雛を手ではらい、曲がってもいない襟元《えりもと》をもう一度直した。  じろじろ無遠慮《ぶえんりょ》な視線をぶつけてくるアルを通りすがりにちらっと横目で眺め、恥ずかしさが限界に達したようにかあっと赤くなりながら生真面目な黙礼《もくれい》をして、ドアをあけ、出ていった。  そのとたん、すぐに駆けだしたらしい。たちまち、弾んだ靴音が遠ざかる。  アルは、やれやれ、と首の横を掻きながら、ゆったりと居間に戻った。 「行った?」  いつもの袖《そで》つき椅子《いす》に深々とかけて、ニードルポイント刺繍《ししゅう》を刺しながら、ケリーが問う。 「ああ」  アルはカーテンを指先でかきわけるようにして、縦長窓からおもてを眺めた。臙脂色が行き過ぎる。古風なドレスをまとった娘は、走ることを覚えたばかりでそれが面白くてしかたがない仔鹿《こじか》のように、渾身《こんしん》の力で駆けていくのだった。残念ながら立ち並んだ建物や行き交う馬車などが目隠しをするので、その姿はとぎれとぎれにしか見えない。片手で重たげな裾《すそ》をさばき、片手で飛ばないように帽子をおさえて、一目散に。  エマはゆく。  彼の待つ場所へ。 「走ってるぜ」アルは言った。 「そう。気がはやるんでしょう。ういういしいこと」 「転ばなきゃいいが」ポケットからパイプを出して唇の端に押し込んだ。「なにしろ、ジェントリのお坊っちゃまとメイドだろう。……十中八九、うまくいきっこない」 「そうかしら」ケリーは針をすすめる。「いまどき、そうとも限らないんじゃなくて」  アルはまだ窓の外を眺めている。  臙脂色のドレスの娘が、街灯の下で立ち止まる。きょろきょろ頭を回す。馬車の一台が道の端に寄って扉をあけた。若い紳士が飛び下り、何か言ったようだ。振り向いて、ほっとしたように笑ったエマ。  手前を大きな乗合馬車が走って視界を塞《ふさ》いだのでそれから何がどうなったかはアルには見えなかった。乗合馬車がいってしまうともうエマも彼女を迎えにきたらしい馬車も、そこにはいなくなっていた。待ち合わせの相手と、どうやら無事に逢《あ》えたらしい。  カーテンをしめる。 「わざわざ苦労させるこたぁねぇんじゃねぇか」 「誰も苦労させてなんかいなくてよ。本人が自分の好きなようにしているだけ」  アルは返事をしなかった。かすかに肩をすくめるかわりのように、パイプの先がちょこんと動く。  無言のまま、きりのいいところまで模様を刺しきってしまうと、ケリーは丁寧に結び玉をつくって糸を切った。刺繍枠を横の小卓に置き、老眼鏡をはずし、椅子の背にもたれなおす。ままごとあそびのコップのようなちいさな陶器製の指貫《ゆびぬき》を無意識に片手に弄《いら》いながら、つぶやくように言った。 「確かに、そりゃあ、きっといろいろと難しいだろうとは思うわ。リチャード・ジョーンズは簡単に主義主張を曲げるようなひとではないし、坊っちゃまはまだまだ半人前、お父さまに楯突《たてつ》いたりしたら、どんなことが起こるかわかったもんじゃない。……でもね……エマが誰かを好きになったのよ。あのエマがよ?」  くるくるくる。指貫がまわる。 「こんなことはいままでなかった。これからだってないかも」  アルは黙ってパイプを吹かす。 「ミスター・ジョーンズには悪いけど、せめて応援させていただくわ」  馬車を降りると、喧騒《けんそう》がふたりを包んだ。ヴィクトリア駅はロンドンでも一番賑《にぎ》やかな場所のひとつだ。南部の各都市、各地方へ向かう長距離列車や近郊列車がひっきりなしに集《つど》い、発進している。  右から左から間断《かんだん》なく行き交う人波を縫って、ウィリアムは窓口に進み、手早く切符を買った。こっちです。迷う風もなく颯爽《さっそう》と歩いていく歩調があまりに速くて、はぐれないよう、エマはすこし小走りになる。長い脚をきびきび動かして二番ホームの脇にさしかかると、ウィリアムは、オッ、と言って急に立ち止まった。 「ブリティッシュ・プルマンだ」  なんのことかと当惑するエマに、ウィリアムは、豪壮に煙を吐きながら出発準備をしている蒸気機関車を指さしてみせた。 「あれです。綺麗でしょう。我が国の誇る最新列車。二番ホームは大陸連絡用、これからドーヴァーをわたってフランスのカレーまで行くんです。パリからはオリエント急行になって、終着駅はイスタンブール」 「イスタンブールですか……」  つぶやきながら、エマは、精悍《せいかん》な面構《つらがま》えの鉄の塊《かたまり》を眺めた。ぶるぶる震《ふる》え、熱を持ち、吐きだす蒸気をまといつける。それはなにか巨大な不思議な異世界の生き物のようであった。シックな緑色に塗装《とそう》されているのは、鋳鉄《ちゅうてつ》の素朴な黒のままでは印象が獰猛《どうもう》すぎるからだろうか。英国らしい深みのあるハンターグリーン、バーブァー・アンド・サンズ商|会《※》[#※バーブァー・アンド・サンズ商会/19世紀後半に創業。油引きの布や衣料品を販売し、人気を博した。今日では英国王室御用達の認証を授かるアパレルメーカーとなっている。]の油引《オイルクロス》のジャケットのようだ、とエマは思った。  乗車を待つ裕福そうな客たちの間を、何段にも積み上げられた巨大な旅行|鞄《かばん》が赤帽に押されて通っていく。見送りのこどもたちや使用人たちがはしゃいだ声をあげているのは、間もなく来る別れの時の寂《さび》しさを思い出さないようになのだろうか。 「ずいぶん遠くまで旅行なさるかたがあるんですね」 「そうですね。なにせヨーロッパを横断するんですから、ざっと三日ぐらいは汽車に乗りっぱなしになるそうです」  ポーッ! とどこかで汽笛《きてき》が鳴った。 「おっと、残念ながらもう行かないと。僕らの汽車に乗り遅れてしまいます」  定員六名のコンパートメントを占領した。最初は進行方向を向いて横並びの隣り合わせに座っていたのだが、発車してしまっても誰もやってこないので、窓際の前後に場所を移した。向かい合うかたちになる。  テムズを越えると空にひときわ明るさが増した。窓外を流れすぎる景色は、見守るうちに、都市から郊外へ、初夏の田園へとあっという間に変わっていった。まるで自動仕掛けの幻燈《げんとう》装置のように、鮮やかな緑の草原とちんまりとした森、池や家、羊の群れと犬などが、次々に現れては消えていくのだ。  エマは魅了された。  車窓からの景色は、続きものでありながらひとつとして他と同一ではない。めまぐるしく移り変わって、少しも見飽きない。 「いい天気で良かった」と、ウィリアムは言った。「最初、馬車でお連れしようかとも考えたんですけれども、ちょっと遠すぎるかもしれないので、列車にしました。列車のほうがだんぜん速いですから」 「とても速いですね」  エマはうなずき、窓の外とウィリアムの顔とを同時に見ようとして、視線をさすらわせた。  たしかに列車は速く、歩くのよりはもちろん、馬車に乗るよりもさらに圧倒的に速く、力強い。ふと見えたなにかによく目をこらそうとしても、ちゃんと眺《なが》めきらないうちに行き過ぎ、離れさってしまう。  がっしゅ、がっしゅ。逞《たくま》しく車輪のまわる音。らたたん、らたたん、線路をたたく一定のリズム。汽車特有の重たい揺れ。すべてが重厚で、立派である。汽車そのものもなんだか自信たっぷりという感じだ。  自分のようなものがそこに乗っているということがどうにもほんとうのようではなくて、エマは少し気後《きおく》れがする。  かすかに目を細めた顔に、気づかれたか。 「速すぎますか」ウィリアムは心配そうに身を乗り出した。「顔が青いな。お加減悪いですか? 気をつけてください。あまりの速さに目がまわってしまうひともあるようです。うんと遠くをご覧になるといいはずなんですが」 「だいじょうぶです」 「すみません、あんまり速くて……でも、これは、これでもまだそんなには速くないほうなんですよ。各駅停車ですから……あ、良かった。減速しだした。もうじき、駅です」 「はい」  エマは微笑した。  すみません、だなんて。おかしなジョーンズさん。列車が速すぎるのまで、ご自分のせいみたいに。 「やっぱりハキムから自動車を借りてきたほうがよかったかなぁ」ウィリアムは腕組みをして、さかんに考えこんでいる。「自動車ならば、速くだろうと遅くだろうと、自分の好きなように行けますからね。当節はまったく便利なものができました。でも僕は実はまだ運転というものをしたことがなくて、エマさんを乗せるなら、ちゃんとよく練習してからにしないと。突然じゃあ、どんな失敗をしでかすかわかったもんじゃありませんから。それに……ちょっと貸してくれないか、なんて、ひとことでも言ったが最後です。ハキムが……へたすると彼のところの女の子たちまでもゾロゾロと……ついてきちゃいそうです」 「たしかに」  最初の小さな駅に近づいて、列車がぐんと速度を落とす。線路沿いの土手で遊んでいたこどもたちが、列車を追い掛けて走った。幼い子が草に足を取られて転んでしまうが、泣きもせずにまだ走る。こどもたちの先頭をゆく三つ編みの女の子は、エマと目があうと、ぱぁっと笑顔になって、手を振った。思わず手を振りかえすと、もっと振った。  あの子たちは、きっとまだ列車に乗ったことがないのだ、とエマは思う。  近くに住んで、しょっちゅう走りすぎる列車を見て、憧れて。いつかは乗りたいと思っているのだろう。  私はいま乗っている。それも、ジョーンズさんと。  得意気に手など振ってみせたことがなんだか急に恥ずかしくなって思わずキュッと握りしめると、並んだ拳の下にあるスカートの色がいつもと違う。  ……殿方と外出するのに服装は大切よ。それが好いた相手ならなおのこと。  奥さま。  服を貸してくださってありがとうございます。お休みをくださってありがとうございます。おかげさまで、私は生まれてはじめて鉄道列車というものに乗っています。好きなかたと、ふたりきりで。  なんだか信じられない。  今日はなんて不思議な、なんて特別な日なのでしょう……!  ふだんのエマは朝から晩まで家に縛《しば》られているも同然であった。家事は毎日途切れなくいくらでもあったし、ひとりですべての仕事を順序よくこなさなければならなかったから、ぶらぶら出歩いたりする暇はほとんどない。メリルボーンのストウナー邸からもっとも離れても、せいぜいコベントガーデンまで、それも、食料などを買いに市場まで行って戻るだけである。  たまに息抜きをしたくなると、少し遠回りをしてハイドパークにおもむいた。木立の下を歩いて、光と影が交互に綾《あや》をなして自分に落ちかかるのをたのしむ。よその家族つれや、乗馬するひとたちを眺める。水辺のベンチに座って読書をする。ポケットにナッツを入れていって、栗鼠《りす》たちをかまう。そんな程度だ。  彼女の生活圏、道に迷わずに行って帰ってくることができる範囲、気後れなく歩ける行動範囲は、とても広いとはいえなかった。この19世紀末の、大都会に暮らす健康な若い女性としても極端に狭いし、市街でも西の一角に偏《かたよ》っていた。それが、エマのロンドンであり、人生だった。  これまでは。  エマは少し目をあげて、すぐ前の席に座っている若い紳士を見る。斜《なな》めにさしこんでくる直射光に眩《まぶ》しげな目をしている。頬杖をついた顔をくっつきそうなほど窓に近づけているので、ガラスに鏡像が映っている。旅慣れて、寛《くつろ》いだ様子だ。  ジョーンズさんといれば、どこでも、自分の家のよう……。  エマはスカートをつまんで、きちんと整えなおす。  列車が通りすぎると、こどもたちは土手を伝って線路に降り、銀色の熱い金属に耳をつけた。遠ざかっていく列車の響きを、じっと目を閉じて聞いた。  この道はいずれドーヴァーに、そして大陸に続いている。コンスタンチノープルにまで通じている。  列車にさえ乗れたら……切符さえ買えたら……どこまでもどこまでも、好きなところまで行けるのだ。  いつか。  こどもたちは思う。  おおきくなって偉くなったら、いつかきっと、列車に乗って、どこか見たことも聞いたこともない遠くまでいってやる……!  そんなふうにおよそ二十分ほども乗っていただろうか。丘陵地帯にはいると、景色はいよいよ田園風になってきた。空は明るい光に満ちてどこまでも青く、見はるかす遠くの尾根にはもう夏を思わせるムクムクした雲が湧き、道すがらの野辺《のべ》には種々の草花がこの機を逃《のが》すまじと競い咲いている。 「あ! ほら、見えました」  と、ウィリアムが顔をあげた。  視線を追って顔を振り向け、エマは、たちまち目を丸くした。  ぐんぐん近づいてくる丘の一角に突如出現したのは、キラキラ輝くまばゆいもの。夏を思わせる今日のこの強い陽光を、きっぱり跳ね返して輝く大きなものだ。冬の間に集めたたくさんの氷柱《つらら》を溶けないようにしまっておいて、大切に組み立ててみたよう。この青空と強い陽差しの中で、幾千のナイフのように煌《きら》めいている。 「あれが、水晶宮《クリスタルパレス》……」 「きれいでしょう」ウィリアムは微笑んだ。  列車を降り、駅を出ると、もうすぐそこに、水晶宮はある。建物の裾野から間近に眺めあげれば、聳《そび》え立《た》つ高さと大きさ、そして、新世代機械文明のもたらした未来的な美しさが、ますますこちらを圧倒する。  ガラスの壁はある角度ではほとんど完璧に鏡になり、今日のこの特別の青空と緑の丘陵を映り込ませていた。実物と虚像《きょぞう》を一緒くたに視野にいれて眺めているうちに混沌《こんとん》としてくる。現実とつくりものの境が溶けて、夢の中に、万華鏡の中に、誘われるようだ。  数々の教会、議事堂、裁判所など、大きく立派な建物ならばロンドンには別に珍しくもない。だがこの斬新な建造物は、ありふれた石や煉瓦《れんが》ではなく、ほとんど全部、よく磨かれたガラスでできている。透明で薄くて小さな傷からもパリンと割れて砕けてしまう、華奢《きゃしゃ》なもの壊れやすいものの代表のような、あのガラスでだ。  エマはメイドだから、ガラスは危険であり、扱う時には慎重《しんちょう》でなければならないと身にしみている。うっかり落としでもすれば間違いなく割れてしまう。割れれば、目にみえないほどの粒に砕けて、ちくちく痛い。厄介《やっかい》極まりない。そのガラスが、こんなにたくさん、しかも、あんなにも高いところにまで、精密に組み合わされて、建物のかたちをなしているなんて!  なんてすごい、とエマは思う。誰がこんな途方もないことをしてみようと思いつくことができたのだろう。  むろん、ガラスのみではこんな大きなものを組み上げられるはずもない。鉄の梁《はり》や支柱と木材が緻密にかつ整然と組み合わされてガラスを支えているのである。そこにはどれほどたくさんの知恵や工夫や技術が費やされたか、想像もつかない。  こんな美しいこんな大きなものを造り出すには、どんなにか大勢が、どんなにか長い時間がんばったのだろう……?  そう、これがただ「ある」のではなく、自然にできたのでもなく、誰か人間によって計画され、人間の手によって実現したもの……ひとに「つくりだされたもの」であるということが、よりいっそうの不思議であり、圧巻であるのだった。そこにそそがれた時間やエネルギーを思うと、なんて贅沢《ぜいたく》なんだろうと気が遠くなるのだった。  いわば巨大な人工宝石だ。なにしろ数えきれないほどたくさんの微妙に角度をつけられた面をもった結晶体なのだから。計算された多面体カットをほどこされたダイアモンドが磨かざるものとは比べ物にならないほど複雑に魅力的に輝くように、惜しみなく使われた幾千幾万のガラスがそれぞれの角度でくっつきあってひとつになって、見るものを感動させるのである。宮殿《パレス》と呼ぶに相応《ふさわ》しい存在感を醸《かも》しだして。  水晶宮。ガラスの城。なるほど、おとぎ話の王女さまがお住まいになりそう。  おとぎ話には裏方などは出てもこないのがきまりだが、  ……もし、なにかの間違いでひとつふたつ外れて落ちてきてしまったらどうするのだろう。そして、あの高い高い天井《てんじょう》のほうなんか、もしもすごく汚れてしまったら、いったいどうやってお掃除するのだろう。  エマは思わず考えてしまう。 「はい、入場券です」  ウィリアムが紙片を渡してくれたので、エマはハッと我にかえる。  列に並んで買ってきてくれたのだ。 「すみません、おいくらでしょうか」  あわててバッグを手繰《たぐ》りよせようとすると、よしてください誘ったのは僕ですから、と押しとどめられた。 「それに、ほんの一シリングなんです。だから、こんなことぐらいで、借りをつくったなどと思わないでください。……エマさんがうんと気にいってくれたら、シーズン・パスポートだってプレゼントしちゃいますよ! さぁ、入り口はこっちです。幸《さいわ》い今日は、あまりひどく混んではいないようです」  よその家族連れや既婚婦人の旅行者らしいグループなどの大勢と相前後してゲートを潜《くぐ》ると、温室に入った時特有の感触がする。温《あたた》められた空気に花とも香料ともつかぬなにかの香りが濃厚にたゆたっていて、しっとりと肺を満たした。  そしてたちまち目に飛び込んできた室内の、種々の展示物の風変わりなことといったら。 「………!」  エマはほとんど呆然自失《ぼうぜんじしつ》してしまう。  どこを見ていいやら。どちらに進んでいいものやら。 「すごいでしょう」  ウィリアムは自慢するように言った。ひとの流れからかばうように、自然とエマの背中に手を添えていた。 「どこからどう見ていいものやら、ほんとうに迷ってしまうんですよね。よければ、僕が案内しましょう」  ガラスの宮殿の仕掛け箱のうちに彷径《さまよ》いこんだものたちは、ただもう感動と好奇心の囚《とら》われ人になって、目をみはり、驚き、夢心地になったまま、あれもこれも次々に見聞して歩くことができるだけ。  まず最初に目を惹くのは、万博期間中にも最も人気を呼んだと言われる水晶噴水だ。バーミンガムのオスラー社が作ったほっそりと優美な三段重ねの噴水は、大通路と袖|廊《※1》[#※1袖廊/廊下の左右に突き出た袖状の部分を指す。トランセプト。]の交わるあたり、半円ドーム状に突き出した屋根の真下に設置されている。  シャンパングラスをいくつも並べたお盆を、のせて重ねて塔にしたみたい──、とエマは思う。 「ここらあたりに例の楡の木があったのです」ウィリアムは宙を指さした。「この建物が、万博のためにハイドパークのロットン・ロ|ウ《※2》[#※2ロットン・ロウ/ハイドパーク内にある、ケンジントン宮殿からのびる馬専用の道「馬道」。]に設置された時には。たしか、こっちに二本、ちょっとむこうにもう一本。合計三本、あったはずです」 「ほんものの樹を運びこんだんですか?」エマは聞き返した。「楡の木って、ずいぶん大きいものですよね」 「あとから持ち込んだんじゃなくて、もともと公園に生えていた樹木をそのまま動かさなかったんですよ。傷つけたり損ねたりしないように気をつけながら、その周囲にこの建物を少しずつ作っていったんです」 「そんなことができるんですか」 「できたんですね」ウィリアムは誇らしげな顔をした。「この水晶宮はジョセフ・パクストンというひとが設計したんですけど、彼はもとは庭師さんでした」  若い頃の雇い主であった貴族に、南米ギアナ高地の睡蓮《すいれん》の種をなんとかして咲かせてみせてくれないかと相談され、ガラス温室を工夫した。ついに咲かせることができた異国の花、……直径一メートルを越える巨大な睡蓮……をとっくり観察することで、軽くて少ない部品で大きなものを建造する技術を学んだのだ、とウィリアムは説明した。 「その研究成果が、ここ、この水晶宮です。万国博覧会の時に図面で応募して、みんなを驚かせた。このガラスの建物は、単に美しくて珍しいだけじゃなく、工事に必要な時間が短く、費用も他のどんなデザインのものよりも安上がりにできるんだそうです。自然は、できるかぎり無駄《むだ》を省《はぶ》いて、効率のよいものをつくるでしょう? いわば、睡蓮がお手本なんですよ」 「睡蓮が」エマは屋根を見上げた。 「そう。ほら、たとえば、あそこに見えるあの鉄の筋が、葉脈《ようみゃく》や、花びらの筋ばったところみたいなものです」 「……きれい……鉄のレース編みみたいです」 「たしかに!」ウィリアムは感心してうなずいた。「ドイリー、とか言うんでしたっけ。テーブルセンターの縁飾りやなにかに、あの窓のあたりの意匠《いしょう》によく似た模様がありますね。そうそう、パクストン氏がこの時発明したものにもうひとつあって、|プレハブ《プレ・ファブリケーション》というのです」 「プレファブリケーション……?」 「新式工法です。鋳鉄や鍛鉄《たんてつ》の部材を……たとえば一定の湾曲《カーブ》や何種類かの長さの棒を、工場で大量生産するのです。ひとつの部材が何通りにも応用できるよう、部材同士組み合わせがきくよう、考えてあります。バラバラの部品を、ある程度の塊《ブロック》になるところまで組み上げておいてから、馬車で運んで、現場で組み立てる。これなら仕事が早い。レンガみたいに、熟練工がひとつひとつ注意深く積み上げなくていい。しかも、現場でもし新しい要求がでてきたら……ほら、楡の木をちょっと避けたいとかです……気軽に予定を変更することができる。もし、いらなくなっても、こうして、場所を移して建て直すことも容易でした」 「建て直す?」 「ハイドパークは万博が終わったらもとに戻す約束だったんです。でも、この水晶宮をみんなが大好きになってしまって、これきりなくしてしまうのは惜しいと言ったので、移転して、残すことにしたのです」 「そうだったんですか」 「さぁ、立ち止まって話ばかりしてもしかたない。せっかくですから、見て歩きましょう」  少し歩くと、大きな案内図があった。水晶宮全体を鳥瞰《ちょうかん》して、どこになにがあるかを示している。 「いま、僕らがいるのは、ここらです」途方もなく広いらしい会場の一点を、ウィリアムが指さした。「これによると……そっちにいくとビザンチン、こっちがロマネスクになってますね。どちらに行きましょう? エマさんはどちらがお好きですか?」  エマは、まごついたような顔をした。「あの……わかりませんから……どちらでも」 「わかりました。ぼくも、実は、あまりよく知らないんです。……とりあえず、近いほうから回りましょうか」 「はい」  古代遺跡の|飾り柱《エンタシス》、ペルシャの黄金の玉葱《たまねぎ》屋根、支那《しな》の五色の絹錦。目も彩《あや》なタイルやステンドグラス、砂漠に横たわっていた謎《なぞ》の神像。唐草模様に神聖文字《ヒエログリフ》、大理石、漆喰《しっくい》、テラコッタ。さまざまな素材と、さまざま趣味様式、さまざまな色にさまざまな文様!  世界じゅうの民のありとあらゆる珍奇な宝がここにはあるかのようだった。  見るものすべて目新しく、どこもかしこも不思議で魅力的だった。 「ビザンツというのは、イスタンブールのことのようですね」 「はい」 「例のオリエント急行の終点です。いまや世界も存外狭いものなんですね」 「ほんとうに」  ウィリアムが、せいいっぱい気をつかってあれこれ説明してくれるのは嬉しかったが、同時に、少しばかり荷が重かった。見るもの訊くもの、あまりにも華麗で立派で、現実感がない。会場は途方もなく広く、一度に経験するにはたくさんのものがありすぎて、圧倒されてしまう。エマはなんだかふわふわして雲でも踏んでいるようだった。 「ロマネスクというのはフランスのことなんですね」 「はい」 「バロック建築が出てくる前の様式です。それにしては、ちょっと紛《まぎ》らわしいと思いませんか? この名前だとローマみたいです。ジュリアス・シーザーが出てきそうです」 「たしかにそうですね」  こんなに物知らずで無学だなんて、呆《あき》れられているのではないか、とエマは思った。  ケリー・ストウナーのおかげで読み書きや計算は一通りできるようになり、たとえば美しい詩などもいくつか口ずさめるようになってはいたが、歴史や地理、他国の文化についてなど、上の階級のお嬢さまがたならば、身につけていてあたりまえな知識や教養をまったく知らない。  このような場にいると、そのことが身につまされる。  自分は、なんにも、知らない。ジョーンズさんがせっかく楽しく話してくださっているのに、気のきいた返事ひとつできない……。  劣等感というほど強い感情ではないが、寂しさと差恥《しゅうち》が入り交じって拗《す》ねた気持ちをわずか捏《こ》ね混《ま》ぜたような、自分でもちょっと持て余してしまうようななにかを、エマは感じた。  もしも生まれ育ちがほんの少し違ったら、自分はどんなひとになっただろう、どんな人生を生きたのだろう。  なにをした?  なにをしたかった、だろう?  もしも、なんでも選択することが許されたなら?  しょせん、空想は空想、現実ではないことは考えてもしかたがないが。  そして……  どうやら、なにも彼女ばかりが物知らずなわけでもないらしい。  どの展示物も、どのコーナーも、さまざまな入場客たちの大いなる興味をひいている。  ボンネットをかぶり傘を携《たずさ》えた上流婦人も、継《つ》ぎはぎだらけの見すぼらしい身形《みなり》をしたこどもたちも、ほとんど同じように驚愕《きょうがく》の声をあげたり、思わず立ち止まってしげしげと眺めたりしている。  みんなにとって珍しいものが、みんなが気軽に興味本位に見物できるところに、さぁどうぞと広げられたから。学者や研究者や王族などほんのひと握りのひとたちしか知ることのなかった世界の宝ものを、いまや、見たければ誰でも見られる、知りたければ誰でも知ることができるようになりつつあるのだ。  ──コンスタンチノープルも、汽車で三日の先。  世界は、いま、変わっているんだわ、とエマは思った。目に見えるところでも、見えないところでも、少しずつ、でも、どんどん、速く、大きく。  水晶宮は途方もなく広く、見学するべきものはたくさんありすぎ、よほど早足に歩いても、半日かそこらではなかなか全部を回りきれなさそうだ。  売店で買った軽食をそこらにかけて頬張り、またしばらく見物を続けた。  やがて、エマが、失礼します、と言って立ち止まり、裾《すそ》に隠して靴の具合をちょっと確かめるようなかっこうに身じろぎしたのを、ウィリアムは見逃さなかった。 「疲れましたか?」 「すこし」 「休みましょうか」 「だいじょうぶです」  エマはそっと笑ったが、ウィリアムは、まぁまぁ、といって、腰をかけさせた。 「すみません。なんだか……世界じゅう歩いたみたいで」 「そうですねぇ」ウィリアムもうなずいた。「ほんとうだ。ここなら歩いて世界一周ができます。まるまる一日がかりですが……でも、それだけじゃない。もっとあるんです」 「もっと?」 「図書館とか、活動写真館とか。今日はあいにくやってませんでしたが、コンサートルームで演奏会が催《もよお》されることもありますし、北の給水塔は展望台になってます。スペシャルデイには、舶来《はくらい》の蘭《らん》を集めたフラワーショウなどもあってたいそうな人気だそうです。入場料を一ギニーも払わされるというのに、押すな押すなの大混雑になってしまうらしいですよ」 「聞いているだけで目がまわりそうです」 「毎週木曜の晩には盛大に花火をします。『おばけトンボ』に『炎のナイアガラ』『大銀河』……いろんな種類の大がかりな仕掛け花火を、次から次へどんどん点火するのでたいへんな迫力ですよ! ああ、エマさんにもお見せしたいなぁ。こんどはぜひ木曜に来ましょう」 「……そうできればよいのですけれど」 「そういえば、前に来た時なんですけれど、妹にせがまれて電気魔術師ドクター・リンというのも見物しました。謎の機械の中に閉じ込められて原子まで分解されてまたもとの姿に戻ってみせる、という、いかにも怪《あや》しげなものでしたが……なかなか斬新《ざんしん》な演出で、面白かったなぁ。手品も最近はずいぶんと科学です」  休憩《きゅうけい》をとってからは、展示物の全部を丹念に見て回るのではなく、ぶらぶら歩きをして、気になったところにだけ足をとめるようなかっこうになった。これはどうだろう、互いにちらりと目を交《か》わして、合図をした。軽く眺めながら行き過ぎるだけでよいところはそうしてしまう、じっくり眺めたいところはそうする。  そんな無言のやりとりが、妙に嬉しい。楽しい。  自分は興味がなかったものでも、相手がゆっくり見たがっているようだと思えば、足を緩《ゆる》めてよく眺めてみたり。逆に、もし自分ひとりならじっくり腰《こし》をすえていつまでも見飽《みあ》きなかったかもしれないものでも、相手に関心がなさそうで退屈させてしまいそうならば、あっさり通過してもかまわない気持ちになったり。  足早になったり、ゆっくりしたり。  互いに調子をあわせてそぞろ歩く。  特に注意をひきたい時には、そっと袖をひき。あるいは腕に手をかけ。あるいは一瞬だけ背中に触れ。  はぐれまいとし、互いのわずかなメッセージもあやまたず読み取ろうとすれば、自然、寄り添い、近づいた。見物が進むにつれ、ふたりの問は狭まって、ほんのかすかなごくたわいないものながら、たがいに触れている時間が多くなった。  ふたりはどちらもほとんど口をきかなかったが、心は穏《おだ》やかに満たされていた。  剥製《はくせい》のあるところにくると、ウィリアムはきっぱりと足をとめた。  鳥たちはみな、生きている時を彷彿《ほうふつ》とさせるような姿に展示してある。さまざまな生息環境が再現された背景に、種々の鳥が巧みに配置してあるのである。飛んでいるさなか、雛《ひな》に餌《えさ》をやろうとしているさなか、あるいは、ただ一羽どこかにとまってぼんやりしているさなかの姿などで、時を凍結されたかのごとく永遠に静止している鳥たちの集団は、見た目に面白くはあったが、少し恐ろしいような一種異様な空気をかもしだしてもいるのであった。 「ドードー鳥です」ある鳥を指さして、ウィリアムは言った。 「『アリス』のですか?」  エマが訊《たず》ねると、そうです、と笑う。 「アリス嬢から指貫を奪《うば》って返してみせたあのおかしな鳥です」 「挿絵《さしえ》とは、違うような……」 「残念ながら、本物じゃないんです。骨格標本と、実物を観察したひとの残した文章から、推測して作り上げたものなので。ちなみにあちらがオオウミガラス。あれは剥製ですが、どちらも、いまはもうこの世にいなくなってしまった種類の鳥たちです」 「もう、いない……」 「人間の身勝手がそうしてしまったんです」  ウィリアムはガラスケースにそっと手を触れ、そのまま、なにか熱心に考えるような横顔をみせて、黙り込んだ。  エマは片脇にたったまま、そっとその彼の姿を見守った。垂《た》らした手が少しあがり、また下がる。  やがて、ウィリアムは、すみません、お待たせしました、と笑顔になる。  歩きだす。  |赤い城《アルハンブの宮殿》を紹介する一角を過ぎ去ると、あたりの様子が切り替わり、鬱蒼《うっそう》と植物の繁《しげ》った棟《とう》に踏み込んだ。少し暑い。歩道もややぬかるんでいる。借り着の裾を汚さぬよう、滑ってころんだりしないよう、エマは足元にことさらに気をつけた。  緑濃い椰子《やし》の葉群の重なりを越えていくと、樹冠《じゅかん》が開け、ぽっかりと天然自然の広間のようになった空間に出た。華麗に情熱的に咲き誇る熱帯の花の間を、極彩色の鳥たちが恋歌を鳴き交わして飛び過ぎていく。小さな目立たない噴水がせせらぎに波紋をひろげ、かそけき水音をたてる。  特に耳についた鳥の声がこだまして消えたとたん、あたりが不意に静かになった。耳をすましても何の音もしない空虚《くうきょ》な静寂《せいじゃく》ではなく、かすかな音が少しずつ重なりあって打ち消しあっているような、全体が背景音になって何かの訪《おとず》れをまっているような、深みと豊かさのある静かさだ。 「……エデン」  エマは知らず、つぶやいた。  聖書で楽園と呼ばれているのはこんなところではないかと思ったので。 「あ〜、ここ!」ウィリアムは両手を広げ、踵《かかと》を中心にしてくるりとからだをまわしてみせた。「ここ、好きなんです、妙に! いいでしょう、静かで。何もなくて。いや、けっしてないわけじゃあないんですけど……沢山あるんですけど。ほら、ここまでは、やたらにいろいろなものをしっかり見なきゃならない感じだったですけれど、ここは、どこに焦点《しょうてん》をあわせるでもなく、ただ、ぼうっとすればいいところなので」 「わかります」エマはうなずいた。「わたしも好きです。素敵なところですね」 「良かった……ちょっと座りませんか?」  ウィリアムは懸崖《けんがい》の通路の欄干《らんかん》に……それは冷たい石でできていて奥行きも高さもベンチ代わりにするのにちょうど良いものだったので……腰をおろした。  はふ、とため息をもらし、弛緩《しかん》した笑顔になる。  エマもスカートの襞を整えなおして右隣に座った。ほんの少しだけ離れた隣に。からだがぴったりくっついているわけではないが、手を伸ばせば触れることができるぐらいの、隣に。  心地よい距離に。  そうしてそっと顎《あご》をあげて、異国の葉の綴《つづ》れ織《おり》のかなたの屋根を見上げてみた。まばゆいばかりの春の光が、ガラスの覆いとあふれるグリーンの多層のヴェールとにさまざまにさえぎられ弱められて、幾十本の淡金色の輻《や》となって注《そそ》ぎこんでいる。  視野いっぱいに、神聖さを含んだ優しい色と光が慈愛のように満ちている。  天然自然の聖堂。 「落ちつきますね」エマは眼鏡の奥の瞳をゆっくりと瞬《またた》きさせた。 「いいですよねぇ……こういうの」ウィリアムはうっとり微笑む。「季節も天気もちょうどよくて、ほんとうに気持ちいいです……!」 「ええ」  しばらくそのまま、座っていた。 「……好きだなぁ……こういうの」  ウィリアムがもう一度、ため息まじりに言う。 「せっかくのいい日に薄暗い書斎で書類仕事に負われて執務机かなんかに縛りつけられてると、時々、なぜこんなことしてるんだろうって思って、わぁっと叫びだしたくなります。何か壊してみたくなったり」 「ジョーンズさんが、ですか?」 「いけませんか」  榛《はしばみ》色の瞳をゆっくりと戻して、エマはじっとウィリアムを見つめた。 「……なさらないと思います。もし、そんなことなさったら……あとから……ひどく……すまながられるんではないかと」  ウィリアムはウッと詰まり、それから、あはははと笑いだした。 「おっしゃる通りです。見抜かれてるなぁ! うんと小さい時やっちゃったことがあるんです。つい癇癪《かんしゃく》を起こして、大事にしていた玩具《おもちゃ》にあたってしまって」 「ご自分の玩具にですか」 「模型の帆船《はんせん》だったんですけど、掴《つか》んで、床に投げ落として……マストを折ってしまって……まっすぐ戻らなくなって。ものすごく後悔《こうかい》しました。うんと時間をかけてつくった大切なものだったのに、一瞬のうちに台無しにしてしまったでしょう。なんて愚《おろ》かだったんだろう、なぜこんな取り返しのつかないことをしてしまったんだろうって、最悪に真っ暗な気分になって落ち込んでしまって。それ以来、腹がたっても、悲しくても悔しくても、あまり顔や態度に出せなくなりました。抑えきれないほど感情が強まらないうちに、急いでごまかして飲み込んでしまうんです」 「…………」 「だらしない、男らしくない、軟弱者です」 「いえ」エマはゆっくり首を振った。「……強いかたです」  その頃、水晶宮の広い順路のあちこちに制服姿の係官が現れて、もう三十分で閉館になります、と、声をあげていた。そろそろお帰りのお時間です。出入り口のほうにおすすみください。  展示物に夢中な客たちの注意を促《うなが》し、いやだまだ居《い》る、もっとここで遊ぶんだとぐずるこどもを巧みにあやし、おしゃべりに腰を据えて動こうとしない老人たちをそっと追い立てて。係官たちは各自の分担区域を掃討《そうとう》しながら合流する。  まばらに散らばっていたひとびとが出入り口付近にぞろぞろ溜まる。ほとんどの客が名残惜《なごりお》しがるので、追い出すのに時間がかかるのはいつものことだ。  係官たちも、特に急かしはしない。潮が引くように人波が流れていくのを、のんびりと待った。  エマとウィリアムの姿はそこになかった。  さすがの係官たちも、入場した全員の特徴を覚えているわけでもないし、数を数えて確認しているわけでもない。  若い係官たちが手分けして、主となる通路をもう一度往復し、閉館しますと声をかけ、誰もあわてて出てきたりしないことを確認した。 「どうもご来館ありがとうございました」最後の客が出入り口を潜る。「またのおいでをお待ち申しております」  ありがとうございました、そこらに居合わせた係官たちがいっせいに挨拶《あいさつ》をする。 「もうおらんな」 「ええ、いまの婦入で最後です」 「そっちは」 「無人です」 「ようし」年配の責任者はやれやれと肩《かた》で息をついた。「それでは今日はこれまで。事故もなんにもなくて良かった。みんな気をつけて帰れ」 「おつかれさまでした!」 「はい、ご苦労さん」  責任者は、ポケットからじゃらりと重たげな鍵束《かぎたば》を出す。  ふたりはまだ“エデン”に座っていた。  濃い葉の連《つら》なりが天然のあずまやのようになった一角に。  そこは奥まっていて、よそからなかなか見えぬところだった。先は行き止まりで、もう展示がない。見物を急ぐひとびとは横目で通過して顧《かえり》みない場所でもあった。  ゆえに……誰にも何にもわずらわされずに、無邪気なおしゃべりにひたっていたのである。 「──そうなんですか?」 「ええ。やっと見つけてもらったら、鉄道模型にそりゃあ真剣に見入っていたって」 「迷子じゃないみたいに?」エマが笑う。 「迷子じゃないですよ。少なくとも、自分では迷子だなんて思ってなかった」ウィリアムは唇をとがらせる。「ほんのちょっと離れただけだと思ってたし。そんなに何時間もたっていたなんて全然気付いてなくて」 「夢中だったんですね」 「だから、なんで怒られるのか判らなかったなぁ。なのに、テレサなんか……乳母《ばあ》やなんですけど……顔真っ赤にして、両目から、滝かと思うほど涙こぼしながら怒るんですから。あれにはまいりました」  ふふ、と笑いかけて、ふとポケットに手をつっこむ。  懐中時計を取り出して眺めた。時刻は、六時半。 「あ、いけない。もうこんな時間だ……だいぶ日も暮れてきました」  天頂にある時より俄然《がぜん》大きく見える太陽が、ガラス越し、西の丘陵の際《きわ》に茜《あかね》の雲の裳裾《もすそ》をひろげているのが見えた。 「うっかりして鍵|締《し》められちゃったなんていったら洒落になりません。出ますか」 「ええ」  立ち上がって、歩きだして、すぐに異状に気付いた。  さっきまであんなにたくさんいたはずの人影がどこにもない。賑《にぎ》わっていた通路は、どこも無人で、しいんと静まりかえっている。 「……どうして……」  太陽も、なんだかぐんぐん落ちていく。突然加速度がついたようで、もうじきに水平線の向こうに消えてしまいそうだ。  棟の境目までいくと鉄枠にガラスをはめ込んだドアが、ぴたりと閉まって、その先にゆけなくなっている。ウィリアムは把手《とって》をつかんで、思い切りがちゃがちゃ鳴らしてみたが、押しても引いても動かない。鍵がかかっている。 「駄目です」 「開かないんですか?」 「うそだろ……おーい! 誰かいませんかー! 誰かー!」  だれかー。だれかー。だれかぁ…… 「誰もいないのかあ!?」  いないのか。ないのか。いのか……  天井に反響した声が、通路の向こうまでこだまして消えていくばかり。 「まいったな」ウィリアムは帽子を脱いで汗を拭《ぬぐ》った。「閉館になるのに気付かなかったのですね。……ええい、こうなったら」ウィリアムは手近な植物の鉢《はち》をうんこらしょ、と持ち上げた。「あとで弁償《べんしょう》すれば!」 「待ってください」エマはあわてて止めた。「ちょっと待って」 「……でも」 「そんなことなさってはいけません」  ウィリアムは手の中の鉢を見た。  見知らぬ国のたいして特徴もない草が植わっているにすぎない。同じものは他にもたくさんあって、たぶんひとつぐらい壊してしまってもどうってことはない。  だが……  ガラスぐらいは破ることができても、ドアには見るからに頑丈そうな鉄枠がはまっている。そちらはどうしようもないだろう。脱出はできない。  大きな音をたてれば誰かが気付いて駆けつけてくるかもしれないが、こないかもしれない。  ウィリアムが鉢をおろすと、エマはほっとしたように息をついて、そこらの台座にそっと腰をおろした。 「……すみません」  ウィリアムは帽子を脱いで、胸にあてた。  僕が間抜けなせいで。くだらない話に思わず夢中になっていたせいだ。  僕が注意していなければいけなかったのに。ここは夜になれば閉館するって、ちゃんと頭ではわかっていたのに。時計だってもっていたのに。  僕がしっかりしていなきゃいけなかったのに。 「あなたに迷惑を……こんなとんでもないことになって、ご不自由をおかけしてしまって。ほんとうに申し訳ない」 「いえ」  エマはゆっくりと首を振る。 「おかけになりませんか」  暮れはじめると夕陽は意外に愛想がなく、丘の端にかかったかと思うとスポンと隠れてしまう。あたりはたちまち暗くなった。すると月が……満月が……雲の合間からあらわれた。  見上げれば、ずっとそこにあったのに、まぶしく強い陽の光のある時にはめだたなかった月が、夜の主人公然とした青白い貌《かお》をガラス屋根のかなたに見せているのだった。今夜はまた月|男《※》[#※月男/英国では月面のクレーターの織りなす模様(日本ではウサギが餅つきしているとみる)を男に見立てる。]がひときわ鮮やかだ。  蒼味《あおみ》を帯びて冷たげな月の光に目が慣れてしまえば、あたりの事物の輪郭《りんかく》を見分けるのはたやすかった。 「満月ってけっこう明るいんだな」 「ほんとうに」 「新聞ぐらい読めそうだ」 「読めますよ」 「へぇ」  エマさんは月明かりで新聞を読んだことがあるんだ。ウィリアムは思った。ガス燈や蝋燭《ろうそく》を節約するためだろうか。  黙り込むと、闇の底から鈴のような音がいくつも聞こえてきた。 「虫が」知らずしらずのうちに声がかすれている。「鳴いてる」 「鳥ももう寝てるでしょうから」 「眠くないですか」  眠いです、と言われたらどうするんだ。僕の腕でおやすみ。にっこり笑って何気なく言えたなら……そこから続くだろう甘い場面を空想して、ウィリアムはカッと頬を赤らめたが、 「だいじょうぶです。やすむのは、いつももっとずっと遅くなってからですし」  エマは淡々と答えるばかりだ。あくまで背筋をぴしつと伸ばして。 「大変ですね」 「慣れてますから」  そうか。慣れているのか。なるほど。仕事はいつも、もっと遅くまであるんだな……いたわしい気持ちが胸を打つ。慣れているからといっても、大変であることには違いはない。エマさんは働きものだ。忍耐強い。  ちなみに僕も眠くない。ぜんぜん眠くない。きっとこのまま、朝までだって起きていられるだろう。でもそれはエマさんのとは理由が違う。  密生した熱帯の樹々は闇の底で昼とは違うものに変わっている。潤《うる》んだ空気、南国の花の香、夜のジャングルは妖しく優しい。こんなところでふたりきり、朝まで誰にも邪魔されることはない。そう思うと、否応《いやおう》なしに呼吸がはやくなる。  エマの顔は静謐《せいひつ》そのものだ。神々《こうごう》しいほどだ、とウィリアムは思う。今日ここで眺めた遺跡や神殿に、彫刻になって立っていてもおかしくない。  こんなに美しい汚《けが》れないひとを、罪深い目で眺めるんじゃない。内心自分を叱りつける。紳士なら紳士らしく振る舞え。災難につけこんでおかしな真似なんかするんじゃないぞ。  ストウナー先生の顔を思い出せ。きっとすごく心配している。怒っているかもしれない。朝になったら、彼女を家まで送っていって、こんなことになったお詫びを言わなければならない。全部僕のせいで、エマさんには責任がない。巻き込まれただけだと、ちゃんと説明して、許しを乞わなければならない。  それでも……このままこうして朝まで何時間も彼女とずっと一緒にいられるかと思うと、嬉しくてたまらない。先生に叱られるぐらい、かまわない。怖くない。なんて素敵な失敗をしたんだろう。  こうなって却《かえ》って確信した、僕のエマさんに対する気持ちはほんものだ。若気《わかげ》の過《あやま》ちでもその場限りの熱情でも、まして、不将《ふらち》な欲望でもない。彼女を欲しいと思う以上に、尊敬し、崇拝《すうはい》している。この心はどんな障害にあってもけっして揺るぐものではない。彼女なしでは、もう生きていけない。  ……ああ、いったいどうやって父に、わかってもらえばいいんだろう。 「あの……」 「はい?」  周囲の闇の薄暗さの中、青い月光に灰《ほの》かに浮き上がって見えるエマの顔は、ふだんのままに穏やかだ。眼鏡の双つのガラス面にどこかの鉄枠の意匠が半分ぼんやり映じている。金属でできたレース模様を被ってでもいるかのように。  ああ……。きみを一粒の真珠に変えて、この手に握りこんで隠してしまえたらいいのに。  誰にも見せず、触れさせず、ただ、僕だけのものにしてしまえたら。 「ジョーンズさん……?」 「…………」  ウィリアムは、視線を逸らした。こちらを見ようとしない。  こわい顔……エマは思う。  ジョーンズさんには、珍しい。  きっと、困ってらっしゃる。自分を責めていらっしゃるのかもしれない。  ふたりがふたりとも黙ると、虫のすだく声ばかりがやたらに響いた。  ふいに、視野がぼやけた。エマは眼鏡をはずし、熱く火照る目蓋を押えた。  ジョーンズさんのせいじゃない。  こんなことになったのは、わたしが、祈ったから。  ずっとこうしていたいと。  こんな素敵な日がおわりになるのが残念だと。わたしがそう思っていたから、それがお分かりになったから、優しいジョーンズさんは、もう帰りましょうって言い出せなくて、思いがけず遅くなって、それで閉じ込められてしまったんだ。  きっと家族のかたがたが心配している。大事な坊っちゃまはどこに? と、大騒ぎになっているかもしれない。  でも……  かみさま。ありがとうございます。  こんな美しい夜を、過ごさせてくださって。  出られない。戻れない。だからどこにもいかない。  安心して朝まで醒《さ》めない夢をみていられる。夢の中に居続けることができる。こんな思いがけない幸福を与えてくださって。 「疲れましたか」  ウィリアムが言う。  目をこすっているのに気付いてくれたのだろう。 「いえ」  エマはかぶりを振った。 「あんまり見慣れないものをたくさん見て、目が驚いているのでしょう」  眼鏡をもどし掛けようとする手に、指がかかった。  ウィリアムの手が……優しいけれど少しだけ強引に力ずくな指が……眼鏡を奪い取っていく。返すまいと。戻させまいと。  そして、素顔を……眼鏡をはずした顔を……もっとよく見せてくれと無言でせがむように、頬に掌《てのひら》をあてがわれた。  掌の冷たさが心地よいのは、頬が熱いからだ。  ウィリアムの掌と指はごくかすかに動く。  そっと慎重に、輪郭をなぞり、肌の感触をさぐり、頬骨のありかを確かめる。優しく支えて、逃すまいとする。  眼鏡なしで、そうでなくとも月明かりのおぼろ闇で、至極《しごく》ぼんやりとしか見えない視界の中、ウィリアムの顔が近づき翠緑《エメラルド》の瞳が間近に迫りまぶたに黄金色のまつげを伏せぎみにするのが、見てとったというよりむしろ気配でわかった。エマもまた瞳を閉じる。  くちづけの瞬間、至福の心地よさをエマは感じたが、そのことが同時に怖くて不安で恐ろしくて、たまらなく泣きたくなった。  彼の胸は充分に厚く、肩は充分に広く、肉の下に頼もしい骨組がある。紳士らしい服装や態度のせいであまりそうは見えなかったが、ウィリアムは立派な体格をした健康でたくましい青年なのだった。かすかに体重を預けてみると、そのことが身体ごしに伝わってきてよくわかった。  そのひとに受け止めてもらえる、たしかに支えてもらえている安心感に、エマは酔った。そんなふうにまるごとの自分を投げ出しすべて与えてしまってもかまわない相手にめぐりあえたことに。  彼の腕にふわりと包み込まれるように抱かれていると、自分がひよわなうまれたての雛《ひな》になって安全な巣にそっと匿《かくま》われたように感じた。ここにいれば、どんな闇も風も魔物も、恐ろしい運命も、けっして手出しができない。  そのようにして守られているのは、どんなにか幸福なことだろう……!  ふたりきり、他に何をするでもなく、ただ、静かに抱きしめあう。相手がいまここにそうしていてくれることを、そのひととしてそうやって在《あ》ること、生きていてくれること、元気でいてくれることを、この上もない恵みとして喜びあう。  ──ここが楽園《エデン》。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 7 "Family"  第七話 家族 [#ここで字下げ終わり] 「……ジョーンズさん! ジョーンズさん!」  押し殺した声と共に個室のドアがせわしなくノックされたのは、四点鐘を聞いた少しあと、つまり、午後十時を回った頃合いだった。寮《ハウス》は静まりかえっている。当然そうでなくてはならないように。 「ジョーンズさん、あけてください、起きているんでしょう?」  アーサー・ジョーンズは読みかけの本のページを閉じて机にしまい、蓋《ふた》をしめて鍵をかけ、その鍵をガウンのポケットにしまいながら戸口に進んだ。ドアをあけると、寮の下級生、バリー・ブレナンとダグラス・ドーランドが、思い詰めた顔つきで立っている。  |イートン校生《イートニアン》の門限は年齢・学年《フォーム》にかかわらず午後八時半だ。その刻限になれば大扉が閉まる。談話室にて点呼《てんこ》があり、監督生《プリフェクト》の「今宵《こよい》のひとこと」があり、朝まで解散になる。最上級生《シックスズ》は雑談などしながらなおしばらくその場に残ることを許されるが、低学年《ジュニア》は各自の寝室に追いやられる。この後は自習室に行くことすら禁じられている。たとえ宿題《ブレッブ》が残っていようとも、他人が眠《やす》んでいる時にひとりだけ勉強するなどという手前勝手なことは、いつも正々堂々たるべきクリスチャン・ジェントルマンにふさわしいふるまいではない。また、短からぬ集団生活においては、強い紐帯《ちゅうたい》で結ばれるべき仲間を利己《りこ》的に裏切ることはなによりの重罪である。  寮は夕餉《ゆうげ》を出さないの|で《※》[#※恵まれた階級のものにあえて耐乏させ欲望に打ち勝つ術を学ばせるため。ラグビー校などでは、七時ごろと寝る前にパンとチーズとビールの軽食を出した。]、用もないのに起きていても空腹が募《つの》るばかりである。よって学生たちはみな早寝早起きだ。監督生であるアーサー・ジョーンズ以外は、夜九時半以降は、よほどの用がないかぎり各自の部屋から出てはならないことになっている。  こんな晩《おそ》くに下級生たちが廊下をうろうろしていていいはずがない。  ブレナンもドーランドも、格別出来のいい生徒ではないが、問題児でもない。ごく普通に大人しい、目だたない後輩だ。よほどのことがなければ、このような違反はするはずがなかった。  少しいやな予感がしたが、自分が動揺などすると後輩たちを怯《おび》えさせるばかりである。 「どうしたんだ」アーサーは落ち着きはらって言った。「なにがあった」 「すみません。もっと早くご相談にあがればよかったのですが。実は、クラウスのやつが、まだ戻らないのです」ブレナンがクシャクシャの癖っ毛を無意識に掻きむしりながら言った。「自転車も、ありません」 「今日は木曜で、クラウスのやつは、英語の個人教授《チューター》に行く日なんです」ドーランドが補《おぎな》った。「たまにちらっと門限に遅れちゃうことが前にもあったんで、今日もそうだろうと思ったんですけど……いくらなんでも、遅過ぎで」 「点呼は?」アーサーはジョーンズ家の緑の瞳を冷たく磨《みが》かれたエメラルドのように透明にしながら問いかけた。「どうごまかした」 「……ごめんなさい!」ブレナンは思わず悲痛な大声をだし、あわてて自分で自分の口を塞《ふさ》いだ。「あの……すみません、僕が……代理で」 「ふうん」 「すぐ戻ると思ったんです」 「そういえば」アーサーは顎に指をあてた。「確か、クラウスは、前にも点呼に居なかったことがあるんじゃないかな。あの時は、風邪《かぜ》で熱っぽいのでもう寝たと……そう、ブレナン、確か、きみがかわりに言訳《いいわけ》をしてやっていたよね」 「……も……申し訳ありません……!」  ブレナンは頭を垂《た》れ、ドーランドもあわてて倣《なら》った。  ……しょうのないやつらだ!  アーサーはナイフのように閃《ひらめ》くひと睨《にら》みで、平身低頭する下級生二名に想像上の罰《ばつ》をあたえると、素早く部屋にとってかえした。ナイトガウンを脱ぎ、上着に袖《そで》を通し、ブーツを履《は》く。 「ハウスマスタ|ー《※1》[#※1 ハウスマスター/寮に一名〜二名住み込んでいる教師。寮生に対する監督責任もなくはないが、項末事は監督生を頂点とする寮生らの自治に任せるほうが多い。]には、もう伝えたか?」 「……あの……まだです……」 「うん、じゃあ、とりあえずは内緒《ないしょ》にしておこう。いずればれれば、お互い、ふたつやみっつは『Y|』《※2》[#※2 Y/日常の反則に対する刑罰の単位。「Y」とは一定のラテン語の成句を百回清書すること。「Y」をもらった生徒は毎土曜日全校集会で壇上に呼ばれ校長から罪状を発表される。]がつく覚悟だけど」  アーサーは、右側だけキュッとひきあげた唇《くちびる》のそばに小さなえくぼを刻んで、サッと立ち上がった。恐怖と緊張と反省で全身コチコチの後輩二名の肩《かた》を突つき、行くぞ!と号令をかけた。  足早に抜ける廊下の途中、適宜《てきぎ》ドアをノックして、頼りになりそうな上級生《シニア》二名と校僕二名を徴集した。歩きながら手短に事情を説明し、捜索方針と互いの分担範囲を打ち合わせる。  優れた人員と効果的な作戦のおかげで、フリードリッヒ・クラウスとその自転車は、ほどなく無事に発見された。脱走兵は月明かりのおぼろな庭、学園の塀《へい》のすぐ外側の芝草の夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れたところにぺたりと座り込んでいた。生け垣の途切れ目まできて突然自分がどちらにいくつもりだったのかわからなくなってしまったヘッジホッグかなにかのように、途方にくれてうずくまっていたのだった。  発見の知らせを聞いたアーサーが大股に近づいていくのに気付くと、クラウスは、ブルッと震《ふる》えた。不自然な前かがみになって胸をおさえている。たっぷりした上着の中に、明らかになにかを隠しているのだ。 「なんだい、それは」  アーサーはため息まじりに言いながら、クラウスの横に座った。 「なんだか知らないけど、それは、寮の門限を破ったり、きみのために正直ものの友達に嘘《うそ》をつかせたりしなきゃならないほどの、特別大事なものなんだろうね?」  クラウスは物悲しげな目でアーサーを見つめかえし、しかたなさそうに上着を開いた。月夜の庭にぴょこんと飛びおりたのは、黒い縮《ちぢ》れた毛糸玉みたいなものである。すぐにまた方向転換し、クラウスの膝《ひざ》にもたれ掛かるようにして伸びあがる。やたらに振るのが尻だとするなら、ぷりぷり揺れるのは尾っぽだろう。 「……ひゃあ……」ドーランドがあきれたように言った。  ブレナンはやれやれと頭を振った。 「仔犬です」クラウスはやや挑戦的な上目遣《うわめづか》いでアーサーを見ながら、しゃがれた声で言った。「迷子か、捨て子か、わかりませんけど。先生のお宅のすぐ横の公園で見つけて、ちょっとだけのつもりでかまってやったんですけど……だめだっていうのに、ついてきちゃって」 「きみは自転車なのに?」 「猛ダッシュでおいかけてきたんです」 「ふうん、こいつはたぶん、プードルとなにかの雑種だな」シニアのひとりが言った。 「なかなか利口《りこう》そうだな」 「かわいいな」 「おっ、俺の手を舐《な》めてる。お腹すいてるんじゃないかなぁ。よしよし」 「元気いいじゃん」 「飼えるわけないことぐらい、わかっています」クラウスは涙でいっぱいの瞳を月光できらきらさせ、声を震わせた。「寮の部屋に連れて帰ったりしちゃ、絶対にいけないに決まってます。でも、こいつ……お座りっていうとちゃんとそこに座って、すごくいい子にするんです。もう行くよ、ついてきちゃだめだからね、って言うと、……しっかりちゃんと座ったまま、キューンって鳴くんです。すごく寂しそうに……僕、もうどうしたらいいか。困っちゃってなにをどう考えたらいいのか、ぜんぜんわからなくて。ああでもないこうでもないって、悩んでるうちに、気がついたら門限も過ぎて余計に戻るに戻れなくなってしまって」  クラウスの頬にころりんとなみだが伝った。 「もう、いっそ、こいつとこのまま放浪の旅にでようかと思ったり。ハンブルグの家においてこなきゃいけなかったアドルフォのことを、思い出して……」 「そのアドルフォくんっていうのも、プードルなのかい?」 「いいえ、血統書つきのウルフハウンドですよ」クラウスは自慢そうに言った。「こんなに小さくありません。とてもでっかいです! でも……この甘えかたっていうか、すり寄りかたっていうかが、すごく似てて!」 「なるほど。よくわかったよ」  もう止《よ》せというように手をかざしながら、アーサーがうなずいた。 「クラウス、きみも知ってのとおり、我等が伝統の寮生は誇り高く自分に厳しく、寮生活は質実剛健にして厳格なものであって、何人《なんぴと》たりとも、特別扱いはされないきまりだ。ペットなんていう贅沢品《ぜいたくひん》は、飼うことが許されるわけがない」 「…………」 「充分に面倒なんかみてやれないのに、可哀相《かわいそう》だとかなんだとか、その場の感情まかせで無責任に可愛《かわい》がって、連れて来たんだろう」シニアのひとりがいう。「そのくせ、あとになって自分ではどうにもできなくなると、誰かなんとかしてくださいって泣きつくんだよな」 「おまえが拾う前より、いまのほうが、その子にとってよっぽど事態は深刻なんじゃないか」ともうひとり。「可哀相じゃないか」 「そうなのか、クラウス?」アーサーは聞いた。「ちょっとかまってみた仔犬がかわいくて、欲しくなってしまっただけなのか?」 「寮のことも、先のことも、全然考えずに」シニアが言い捨てる。「ほんとうに、その子のほうがついてきたのかなぁ。おまえが無理に連れてきたんじゃなくて? 一から十まで、仔犬のためを思いやってしたことだと、聖書に手を載せて誓えるか?」  クラウスは、頬を真っ赤にしてうなだれた。 「……だったら、捨てて来るんだな。もとあった場所にかえしに」 「いや」とアーサー。「なまじ戻すのは無責任を重ねることになる。しょうがない。哀れだが、紳士らしく自分の不始末は自分でつけるんだ。池にでも沈めてしまえばいい」  おお、と悲痛な声が漏《も》れた。居合わせた全員がショックをうけたような顔をした。 「……と、言いたいところだが」と、顔色もかえずにアーサー。「そういえば、校長先生はああ見えて実はたいそう犬がお好きだったはずだ」 「……?」 「校長室には、ご家族の写真に混ざって、犬たちのいろんな写真がてんこ盛りに、飾ってあったような気がするな……おっと、いっておくが、これはひとりごとだぞ?」 「はい、監督生」 「よくわかりました!」 「監督生がご提案をなさったなんて、ぜったい漏らしませんから」 「シッ、みんな、静かに。監督生のひとりごとをよーく聞け! 聞き漏らすな!」 「たぶん」とアーサーはひとりごと[#「ひとりごと」に傍点]を続けた。「あれらは、校長先生が、こどもの頃から飼ってきた犬たちの写真なのだろう。シェパード、セッター、ヨーキー、レトリーヴァー、いろいろいたような気がする。そういえば、たしか、黒毛のプードルの写真もあったような」 「……わぁ」 「ばっちりだ!」 「僕らみたいな学生を厳しく監督しなければならぬ生活で、愛犬たちとも長くはなれて、校長先生も内心つまらなく寂しく思っていらっしゃらないとも限らないな。その犬もきみのような愚か者ではなく、校長先生のお眼にとまったのなら、さぞかし幸福になったろうに」 「あ……ありがとうございます監督生!」  クラウスは涙を拭《ぬぐ》い、アーサーの手を握《にぎ》って、ぶんぶん振った。 「わかりました。この犬は、明日の朝にも、校長先生のお通りになるあたりに偶然居合わせることになるでしょう!」 「そうかい」アーサーは肩をすくめた。「だったらいいねきっと。きみに未来予知ができるとは知らなかったな、クラウス」 「だいじょうぶ、きっと飼ってくださるよ」校僕のひとりが請《う》け合《あ》った。「校長室のマスコットになれる」 「かわいいし、とっても利口そうだものね」もうひとりがうなずいた。 「あっ、しっぽふってる! この子も賛成してるみたいだぞ」 「校長先生に申し出て、みんなで順番に面倒をみよう」 「餌係とか、散歩につれていってやるとかね。そしたら、クラウス、きみもまたこの犬に逢えるよ」 「ああ、そうなったら嬉しいな! でも、とにかく、この犬にとって一番良いようになることを望みます」クラウスはグスンと鼻を鳴らした。「すみません、ご面倒をおかけしました……ちゃんといい方法を考えていただいて、どうもありがとうございます、ありがとうございます、監督生!」 「だからひとりごとだよ。いいから、そうしがみつくな。もう手をはなしてくれよ。……さて、そっちのふたり」  一緒になって喜んでいたブレナンとドーランドは、ビクッと飛び上がった。  友人をかばってのこととはいえ、点呼をごまかしまでして監督生を欺《あざむ》いた罪は大きい。ひとたび損なった信頼はそう簡単には回復しない。  どんな辛辣《しんらつ》なことを言われるのだろう、どんな罰を与えられるのだろう、怯えて、互いに寄り添うようにして、アーサーを見る。 「次の全休日」  ああっ、そうきたか、と後輩たちは悲痛な感じに眼を閉じた。  全休日は、寮生たちの、大切な生命の糧《かて》、砂漠のオアシスだ。心待ちにしない生徒はいない。せっかくの全休日に、もしも、なにか厄介《やっかい》な用事をいいつけられたり、外出を全面禁止されたりしたら、ほんとうにこたえる。 「きみたち二名には、私の茶会に出席することを堅《かた》く命ずる」  アーサーは驚くふたりに、しれっとして言った。 「腕がおれるまで|小舟《パント》|漕《こ》がしてやるから、覚悟《かくご》するんだ|ぞ《※》[#1※1/これは罰ではなくむしろ褒美。寮の主ともいうべき監督生の茶席に招かれるのは光栄なことであり、常に粗末で量の乏しい給食に飢え苦しんでいる……小遣いの額もきめられているため放蕩は不可能……寮生にとっては、贅沢な軽食や菓子を口にする数少ないチャンスでもある。]」 「……ありがとうございます!」  ふたりは声をあわせて叫んだ。  ひと鞍《くら※2》[#※2ひと鞍/およそ四十五分。乗馬の練習単位。]ほどの距離であろうとも市街を離れれば空気が違う。しかもエレノアにとってこの辺りは、はじめて訪《おとず》れる土地でもあった。ジョーンズ家のお邸《やしき》はロンドン北部にあるのだそうだ。グランドユニオン運河もカムデンの丘ももう越えた。 「よしよし、いい子ね、ダイアモンド・ジュビリー」  軽快に走りつづける白い愛馬の首を叩く。  せせらぎに掛かる古い石橋、早朝の霧の名残《なごり》の草露をたっぷり抱いて茂る藪《やぶ》。雑木林《ぞうきばやし》に囲まれた窪地《くぼち》にはどこかの教会の敷地があり、うすら淡く青い空を背景に、修道院の尖塔《せんとう》のある建物や古風なしつらえの家畜《かちく》小屋、藁作業《わらさぎょう》小屋などがひっそりと連《つら》なっている。そのさまはいかにも田舎風で、しかもいささか中世めいている。  柵囲《さくがこ》いから首をのばしてクローバーの若葉の柔らかいところを懸命《けんめい》に食《は》んでいる仔牛たちの様子に目を奪われて、エレノアはつい手綱《たづな》を緩《ゆる》めてしまった。気がつくと母の背がずいぶんと遠ざかり小さくなっている。あわてて拍車をくれ、だらだら坂を駆け上る。丘の頂点を越えると、そのとたんに開けた眺望に思わず息を飲んだ。  緩くうねる緑の連なりが狭い谷をへだてて次第にうずたかくなっている。柔草《にこぐさ》の海原めいた、これが、ハムステッドヒースの草原だ。空も大地もほとんど生まれ落ちたまま、人間の手をくわえられていない自然のおおらかさを如実ににじませた豊穣《ほうじょう》な風景だ。よく見ると、木立《こだち》の間に、大きく蛇行《だこう》しながら少しずつ標高をかせぐ細い馬車道《プロムナード》が走っている。母とその馬はこの道をたどっているようだ。エレノアは愛馬にぴしりと鞭《むち》をあてた。負荷《ふか》の軽い早足で小道をしばらく進んでいくと、やがて、緑の彼方《かなた》になにか白いものが見えてきた。  邸だ。  左右対称な白亜の邸宅は、典型的な新古典様式のカントリーハウスである。北側正面中央は、建物の最上階である三階部分までもの高さのある巨大な柱を四本配した豪壮な柱廊玄関《ポーチコ》だ。 「あれがジョーンズさんのお宅ね」  エレノアはひとりうなずいた。  丘を下り、小さな堀に架かった石橋を渡り、堅牢《けんろう》にして長大な塀を切り欠く金色|格子《こうし》の正面門にむかった。長い距離を走ってきた愛馬をいきなり立ち止まらせて苦しめずにすむよう、エレノアはかなり手前からそっと速度を緩めてやった。母は違う。彼女は使役《しえき》するものに最高の性能を求める。従順を求める。獣を巧みに調教しきることができる自分であることを見せる機会を逃さぬことを望み、おのが騎乗の腕前を隠すことは望まない。  美しくも凛《りり》々しい乗馬服姿の母と芦毛《あしげ》の馬が彫刻のようにぴたりと静止すると、番小屋から門衛がまろび出てきて、おずおずと腰をかがめて誰何《すいか》した。 「レディ・キャンベル。あちらは、ミス・エレノア・キャンベル」  母の騎乗した馬はその大きな口を目立つほどに開けすらしない。さぞかし呼吸が苦しいだろうに、心臓が激しく拍《う》っているだろうに。ひくつく鼻孔《びこう》から蒸気機関のように湯気を吐き、首筋の静脈をびくんびくんとさせながらも、忠義で利口な獣はあくまできりりと姿勢をただして、鞍上《あんじょう》の貴婦人の威厳《いげん》をいやが上にも高める役割をになうのだった。  門衛が門を大きく開け放つ。  母はゴディ|バ《※》[#※レデイ・ゴディバはコベントリーの領主夫人。重税に苦しむひとびとを哀れに思って夫に減税を進言すると「そなたが裸で町じゅう練り歩いてみせたならば願いをかなえよう」と言われる。町のひとびとは窓を閉ざして協力したが、ひとりだけ覗き見をしたものがおり、名がトムで、「覗き魔(ピーピング・トム)」の名はここから来る。ここでは、美しい女性が威厳に満ちて馬にのっていることをあらわしている。]のごとく堂々と馬を進めた。  執事のスティーブンスが職務遂行《しょくむすいこう》能力を発揮しなければならない意欲にかられたのは、客人をお出迎えに庭に走り出たついでにふと邸のほうを見上げたせいだった。  ウィリアムさまのお部屋の窓に覆《おお》いがしてあるではないか。  とっくに開けられて、きちんと襞《ひだ》も整えられていなければならない時刻だというのに。ひと目自分で確認しておけばよかった。  教育の不徹底を、スティーブンスは恥じた。いまごろの刻限まで薄暗がりにあるだろう部屋を想像して、眉《まゆ》を曇《くも》らせる。|ウィリアム坊っちゃま《マスター・ウィリアム》の部屋づきメイドは誰だっただろうか。このような間違いをしでかすなど、どこか具合でも悪いのではないか。なにか内々に心配ごとでもあって気もそぞろだとか? それとなく様子をうかがって、必要なら相談にのってやらねばならないだろう。  むろんそのような思いは顔にはいっさい出さない。  騎馬の婦人客の馬を預かる差配などをすっくと背筋を伸ばして立ったまま監督し、客二名が主人《ミスター・ジョーンズ》とフットマンたちに案内されて庭を散策しはじめるところまで見守った。主人たちの背が庭園に飲み込まれて見えなくなると同時に踵《きびす》を返し、邸内を横切り、召使用の裏階段を音をたてずに駆けあがり、あっという間に問題の部屋に到達した。  やはりまだ覆いが掛かったままだ。  まっすぐ窓に走りより、  しゃっ。  小気味良い音をたてて窓覆《カーテン》をあけた。  陽光がさしこむ。ガラスごしに庭を見降ろすことができる。優雅な風景庭園の通路をいく客たちが。  と。 「……やめて……」  うめくような声がした。 「……しめて……」  次の窓に歩み寄りかけていた足をとめたスティーブンスは、整った眉を額のほうまでつり上げた。  窓辺から部屋の奥を透《す》かし見《み》る。  ご当家の跡取り息子殿は純白の麻のシーツの海にうつ伏せにおなりになって、ずぶずぶと足のほうへ沈んでいくところだ。肩と腕が覗いていた。頭の先までアッパーシーツに埋もれさせてもなおもの足りなかったのか、必死に羽根枕を探り、頭の周囲に掻き集めている。どうも眩《まぶ》しいのがおいやらしい。  しかたないので、いま開けたばかりの覆いをもう一度戻して光を遮《さえぎ》ると、もぞもぞ足掻《あが》いていたふとんがホッとしたように落ちついた。 「ウィリアムさま?」あまり近づきすぎないところで立ち止まる。「いかがなされました? お加減でもお悪いのですか」 「……眠いだけ……」  くぐもった返事がなんとか聞こえた。 「さっき寝たばかりで……」 「徹夜なさいましたので?」  返事はなかった。  厨房《キッチン》に用事のあるふりをして階下《ダウンステアーズ》に降りていき、今朝ウィリアムさまにお給仕をしたのは誰だったのだろうか、と、ひとりごとのようにつぶやいて見せると、召使《サーヴァント》の男たちや女たちは困ったように顔を見合わせた。 「ウィリアムさまは……昨夜はお屋敷にはおられなかったです」 「ちょうどさきほどお戻りになられたところで」  スティーブンスが一瞬、聞きとがめたように見えたのか、年経《としふ》りた馬丁のヒギンズが椅子《いす》を鳴らし、食べかけの食卓から立ち上がった。お仕着せを汚さぬよう胸元につっこんであったナプキンを引き抜く。 「九時すぎ頃に、辻馬車で、お戻りになられたのです」ヒギンズはぼそぼそ言った。「どうなさったのか伺うてみましたが、なんでもない、心配かけてすまなかったねと、かような仰《おお》せでして」 「トーストを三枚とゆでたまごをふたつ、召し上がりました」ハウスメイドのプルーデンスが口をはさんだ。「牛乳をたっぷり入れた紅茶もです。わたしがお着替えをお世話しにあがったのですが、なんだかぼうっとしてらっしゃるみたいだったので、なにか召し上がりますか、ってうかがったんです。そしたら、ありがとう、気がきくね、って、喜んでくださいました、ウフ」  なるほど。  まるまる一晩、食事をとる間もなく、すこぶる空腹になられ、さらにその後、午《ひる》も近いというのに思わず睡魔《すいま》におそわれてしまうような、何かに夢中になっておられたということか……。  スティーブンスは形のよい口髭《くちひげ》をかすかにビクつかせた。 「ご苦労だった。しかし、そのようなことは他言無用だ。わかるな」 「はぁい」 「みなもだ」  ダイアモンド・ジュビリーを預けたついでに見学すると、ジョーンズ家のL字に連《つら》なる馬房には毛並みの良い馬たちが何頭もいた。よく手入れをしてもらっているようで、みな清潔で、筋肉質で、張りつめた肌がつやつやだ。たてがみにキラキラするキャンデーの包み紙を編み込んでもらっているいかにも気のよさそうな粕毛《かすげ※》[#※粕毛/原毛色は栗毛(黄褐色)、鹿毛(赤褐色)などだが、背や四肢の上部に白毛がみられる。年齢が進んでも白色の度合いはかわらない。]のブルトンは、エレノアを見ると、あっ、お嬢さんいらしてくださったんですか、といわんばかりに大きな歯をむいて笑いかけたが、すぐ人違いに気付いたのだろう、ちょっとがっかりしたような拗《す》ねたような困ったような顔をした。グレイスさんのお気に入りなのだろうか? ああ、そうだわ。彼女は保養地《ライム》へおいでなのだった。長いこと来てもらえなくてこの馬《こ》寂しいのね。ニンジンでも持ってきてあげればよかった。そしたら、わたしともおともだちになってくれたかもしれない。  ごめんね。なにもないの。こんどね。  通路の草藁を踏んで歩きながら一頭一頭の瞳をのぞきこんだ。  青鹿毛《あおかげ》、芦毛《あしげ》、栃栗毛《とらくりげ》……まぁ、きれい。この子みたいな、たてがみが金色でしっぽがほとんど真っ白に輝くようなのは、尾花栗毛って言うんだったかしら。魚|目《※1》[#※1魚目/馬の眼はふつう黒色だが、色素のうすい白茶けた眼をしたものを魚目(さめ)という。]に月|毛《※2》[#※2月毛/馬の毛色の種類で、クリーム色〜淡黄白色。]、連銭|斑《※3》[#※3連銭斑/馬の毛並みに丸い斑の入っているものを指す。]……どの子が強くて、どの子が足が速そうか。どの子が馬場馬術向きで、どの子が障害競技向きで、どの子ならダービーに出場できそうか。  ダイアモンド・ジュビリーのお婿《むこ》さんになってくれそうな子はいないかしら。  もしここに姉のモニカがいたら、きっとひと目で見抜いてなんでも教えてくれるに違いないのに。エレノアは残念に思った。  馬たちを運動させる場所の脇に小高く石を積んでテラス席が設けてあり、茶と軽食の用意がしてあった。厩舎《きゅうしゃ》のすぐそばなので風向きによっては獣特有の匂いがたちこめるが、耐えられぬほど強くはない。エレノアにとってはむしろ好ましい。  椅子をひいてもらってこしかけると、なにやらちょっとした問題が生《しょう》じた様子だ。  執事のひとが、起こさぬようにとのたってのお言いつけで、と、淡々とした声で伝達すると、ミスター・ジョーンズが、なぜだろう、いったいどうしたというのだろう、と、怪評《けげん》そうにおっしゃる。母が、きっとなにかとお疲れなんでしょう、と、物柔らかにその場をおさめようとしている。  誰がお疲れなの? どうして?  目をぱちくりしていると、フットマンが、茶器を片手に顔のそばに腰をかがめて、お砂糖とミルクはどのようにいたしましょうか、と訊ねた。  お砂糖はふたつ、ミルクもたっぷりください。  答えて、待つ。リクエスト通りの茶を手渡され、ありがとう、と微笑《ほほえ》みながら耳をそばだててみる。 「まったくあれは何を考えておるのか」ミスター・ジョーンズは困惑にすこしお顔を赤くなさりながら、おっしゃった。「面目次第もございません。ご婦人がたに、せっかくはるばるお越しいただいたというのに……」 「いえ、おことばに甘えて押しかけてしまって」母は極上の笑顔で言う。「ご招待いただいたこと、たいへん有り難く喜ばしく思いましたので、さっそく参上させていただきましたの。ご迷惑でなかったならばよいのですけれども」 「さようにおっしゃってくださいますな。愚息《ぐそく》はお出《い》でを存じあげなかったのです。伝える間を失っているうちにこんにちになってしまったので……けして、本日この日に奥様がたがお越しであることを知った上であえてしている不作法ではない、そのことだけはどうか勘違いなさらないでください」  あら。待って。  じゃあ、それって、ウィリアムさまのことなの?  エレノアは顔をあげて、まじまじと母をみた。 「どうして。だって、遠乗りをするお約束だったのに」  ウィリアムさま、乗馬がとてもお上手だそうだから、きっと楽しいだろうと思って期待したのに。 「残念ですけど、また今度にしましょう」  いやよ、そんなの。 「やっといいお天気になったのに」 「困らせるものではありませんよ、エレノア」 「ダイアモンド・ジュビリーも、とても調子が良いのよ。今日なら、スコットランドまでだって走れたかもしれないわ」 「この次だってきっと大丈夫ですよ」  この次なんていやよ。今日がよかったのに。すごくすごくすごくたのしみにしていたのに!  せっかく、がんばって早起きして、アニーに手伝ってもらって長い時間かけておしゃれして来たのに。  ウィリアムさまにあいたかったのに。  あって、にこっと笑って、素敵ですねって言って欲しかったのに。  このドレスは、選びに選んだ一着だわ。ウィリアムさまならきっとこのセンスに目をとめて褒《ほ》めてくださるだろうと思ったから、ぜひにと思って着てきたのに……。この黒の乗馬服は、今日の天気にも、うちの馬の色にもぴったりだし、私にも似合う色。今日は、巻き毛の具合も、髪の編み上げも、全体として、とてもうまくいったのに。  ……がっかり!  これは、もうジョーンズさまにお見せしてしまったから、次の時には、着られない。ああ、またいいのを見つけて、ウィリアムさまに似合いますねって言っていただけるような、素敵な|組み合わ《コーディネイト》せを考えなくちゃ。 「コホン……もし宜《よろ》しければ……ミス・エレノア・キャンベル」  母娘の間に走った緊張を見かねて当家の主人が割ってはいった。 「ウィリアムは、今度のアーバスノット卿のお誕生|晩餐会《ばんさんかい》にエスコートさせていただく令嬢をまだ見つけておらぬようです。頼まれてやってはいただけませんか」  突然のことにエレノアが驚いて固まっているすきに、 「よろしいんですの」母がすかさず口をはさんだ。 「うちの娘で」 「もちろんですとも。愚息にはもったいない美しき姫君であられる。もしあなたにご同伴いただければ、ウィリアムもさぞかしよろこぶ事でしょう」 「ほ……ほんとに……そう思われます?」 「もちろんですとも」ミスター・ジョーンズは、にっこり笑った。  まぁ。嬉しい!  その晩餐会にはグレイスさんもお出でになると聞いている。とてもおいしい御馳走《ごちそう》をだしてくださるお宅だそうだ。そこに、ウィリアムさまにエスコートしていただいて、みんなで一緒にお出かけできるなんて、なんて素敵でしょう! 「いかがですかな、ミス・エレノア?」 「はい、ええ、ぜひ!」  エレノアはあまりにも有頂天になったので、母が、はしたないからおやめなさい、と目配《めくば》せをしているのにも構わず、きっぱり自分で返事をしてしまった。  まどろむエマの顔を見ていた。  昨夜《ゆうべ》、あの植物園の通路の台座に半《なか》ば座り半ばうつ伏せるようにして、彼女はいつしか眠り込んでしまったのだった。そんな固いところで、そんな半端《はんぱ》な不自然な姿勢で、寝間着に着替えもしなくてもぐっすり熟睡できてしまうことが、彼女の育ちや日頃|蓄積《ちくせき》しているのだろう疲労の高《たか》を物語っていた。ふかふかの羽根布団のある場所以外ではおよそ眠ったことのないウィリアムにしてみれば、なるほど人間はいざとなったらどこでも眠れるものなのだなと妙なことに感心してしまったりしたが。  寒くないよう脱いだ上着を掛けてやっても、彼女は目をさまそうとしなかった。ひとたび寝入ったら起きなければならない時間がくるまで熟睡するのが癖《くせ》であり自己防衛策であるのかもしれないし、どこにいようと日常と同じリズムでいられるほどまでにとことん安心して心を開放しきっていたのかもしれない。  またそろ長い距離を延々好きなだけ連《つ》れ廻《まわ》し、飲食もろくにさせないなど、彼女のことを思いやってやれなかった己《おのれ》をウィリアムは心のなかで罵倒《ばとう》した。  いつになったらほんものの思いやりというものを学ぶのだろう、自分ってやつは!?  眠る彼女はいとも無防備でいやに幼くか弱く見える。眼鏡をはずした顔を、そんなに長いこと、しげしげ眺めさせてもらったのははじめてだった。  愛《いと》しさに胸が詰まった。  呼吸ひとつごとにかすかに動く肩。つむった目蓋《まぶた》の端をいうどる長い睫毛《まつげ》。えもいわれぬ魅力的なラインを描いた鼻や顎。  貴重な美しいもの。  たったひとりのかけがえのない女性《ひと》。  彼女がそこにいて、しずかに息をしていて、この自分を信頼しきってぐっすりと眠ってくれているという事実が、ウィリアムをしてすべての雄にもともとあるのだろう素朴な男らしさを自分の中に呼び戻させるのだった。  愛するものを眠らせるため、眠るものを守るため、男は不寝番《ねずのばん》をする。  砂漠で、洞窟《どうくつ》で、ジャングルで、群れを成すものたちがみなひとしなみ眠る時。  その眠りを妨《さまた》げかねないすべてのものを寄せつけぬよう。  敵を、嵐を、ライオンを。  ひとり睨み付け見張りながら。危険の到来を予感しながら。  ここは、ここだけはけっして通さぬと、足を踏ん張り両手をひろげて、きっぱり立ちふさがってみせるのだ。  かけがえのないひとを守るために。  それが自分にとっていちばん大切な掟《おきて》であると知るゆえに。  ……実際には、なにものも襲いかかってはこなかった。夜明けの太陽が水平打ちのような金色の光線を投げかけてきて、ガラスの宮殿に幾千万もの煌《きらめ》く輻《や》が差し込んだ以外は。ごく早起きな鳥たちがぴちゅぴちゅと騒ぎはじめた以外は。  そんな早朝、まだ明けきらぬほどに、かちゃりと鍵の開く音がした。客たちが現れないうちに、花がらをつまみ取ったり萎《しお》れた葉を取り除いたり、水や肥料をやったり剪定《せんてい》したりと、必要な植物の手入れをはじめる係の男が、いつものように鼻唄混じりに巡回してきて、彼らをみつけたのだった。 「どうしたのあんたたち?……え、昨日から? そりゃあそりゃあ」  男が呆れて稔《うな》る間もエマはすやすやと眠ったままであった。  ドアが開きましたよ、帰れますよ、と揺り起こしてようやく目覚めたのである。  朝の道を並んで歩いた。  辻馬車を見つけて乗り込むまで。  よく晴れて気持ちのいい朝だった。  ほとんど誰もおらず、通りすがりの家々などもまだ眠たげな静けさに包まれている。かなり長いふたり分の影だけが、音もなく忠実についてくる。世界がゆっくりと動きはじめていくのを見守るようだった。  そのままそうしてどこまでも歩いていたかった。どこまでもどこまでも、ずっと遠いところまででも、ふたりなら、歩いていけそうだった。  だが実際には、サザーク辺りで朝の準備をしている馬車をみつけ、さっそく乗り込んだのだった。彼女を送り届けたリトルメリルボーン122番地の家が、なにごともなかったかのように静まりかえっているのがまだしもの救いだった。僕も降りて先生に謝るとウィリアムは主張したが、まだおやすみの頃合いですし、お起きになってすぐにひとにお逢《あ》いになられたくはないと思いますとエマに言われて、なるほどそれもそうだろうなと遠慮《えんりょ》することにした。実際、頭はもうぐらぐらで目玉が蕩《とろ》けそうに眠かったのも確かだ。ストウナー先生にお詫《わ》びをするつもりで、お着替えなさる間をちょっと待っているはずの場所でこくりこくり居眠りしてしまったら(いかにもそういうことになりそうだが)様にもなんにもなったものではない。  邸に到着するまでにもう、夢の国に持っていかれていた。  できることなら誰にも見つからぬようこっそり忍び込むつもりだったのだが、実際には、朝早く門前に到着した見慣れぬ馬車に何事かと驚いた召使たちが殺到して、座席でひとり眠りこけておられる放蕩息子の若様を発見したのだった。テレサか誰かが馬車賃まで立て替えてくれたようだ。まったく慣れぬことをするとひとに迷惑をかける。  空腹を満たし、着衣を改め埃《ほこり》を払いからだを清め、清潔でふわふわな自分のふとんにするりと潜《もぐ》りこんだ時には、天にも昇る心地《ここち》だった。この世で最高の幸福とはこのことであると思った。途中、なぜかスティーブンスが余計なお世話を焼きにきたが、追い払った。この至福のまどろみを継続するためなら、悪魔にでも魂を売り渡しただろう。  ──でも……  改めてきっぱりと眠りに落ちる少し前に、  ──彼女のほうはこれから一日働きづめなのだ。  罪悪感が、ちくりとウィリアムの胸を刺した。  女主人がもし眠っていたとしても自然に起きてくれるように、いつも忍ばせている足音をわざと少し強めにした。あたたかい湯をいれた琺瑯《ほうろう》のボウルとピッチャーを両手に抱えて、寝室のドアをあける。  ケリー・ストウナーはうっすら目を開いた。ベッドに仰向《あおむ》けに横たわったまま。  あまり顔色が良くない。疲れがにじみでている。痩《や》せたので頬骨《ほおぼね》の高さがめだつようになっている。  だが、鉄色の瞳はいまなお強い光を放ってエマを見つめた。  視線が交わったので、無邪気を装《よそお》って、なにも心配なことはないかのように微笑《ほほえ》んでみせた。 「いま、よろしいですか」  ケリーはゆっくりと瞬《またた》きをした。 「からだを拭いましょう。きっと少しはさっぱりなさいますから」  ケリーは、さあ、というように肩をすくめた。  女主人のからだは硬かった。余力がなく、自分では素早く上体を起こすことができない。それでも、ケリーは毅然《きぜん》とした態度を崩そうとしなかった。エマは控えめに介助をした。  片流しに編んだ女主人の銀髪のもつれが、窓辺からの陽差《ひざ》しに透けてしろがねの雲になる。  タオルを、ラヴェンダー水で香りづけした湯で絞る。  女主人の寝間着の袖をそっとまくる。  左腕を手から肘まで。右腕を手から肘まで。指の一本一本を、爪のひとつひとつを、ゆっくりと、心をこめて拭う。 「……暗いわね」  女主人が言うのに驚いて、エマは手をとめた。  窓のほうを見て、雲でも太陽の面《おもて》をよぎっただろうかと考えていると、 「あなたよ」  言われた。 「この前まであんなに楽しそうにしていたかと思ったら。あがったりさがったり、忙しいわね」  返事に困って、エマは黙り込んだ。  水晶宮《クリスタルパレス》で夜を明かした翌日、きっと何か言われるだろうと思ったのに、女主人はまったく何も言わなかったし問わなかった。まるで、ふだんと違うようなことは何もなかったかのような顔をされて、かえって困ってしまった。  なのでこちらのほうから、つい言訳をした。  座っておしゃべりをしているうちに時間がたつのを忘れてしまって。知らないうちに鍵をかけられてしまって。  ふうん、そうなの。女主人は興味なさげに欠伸《あくび》をして、ドジな坊っちゃまだことねぇ、と肩をすくめたのだった。  彼のせいではない、と、かばいたかったが、実際のところ自分は連れていかれた立場で主導権は明らかにウィリアムが握っていたのだから、言えることは何もなかった。  まるまる一晩仕事を放り出して迷惑をかけた自分のことを女主人が答《とが》めもしないのは、そのことがよくわかっているからだろう、と、エマは思い、奥様はやはり彼のことをお好きなのだ、と確信した。手塩にかけた自分の子のように思っておられるのだ。  とすると、彼の失敗は、ある意味ではご自身の教育の失策だということになる。エマを責めるどころか、むしろ自分で自分を責めなければならないお気持ちになっておられるのかもしれない。 「……ジョーンズさんは」  ふと気付くと口走ってしまっていた。ケリーを安心させたい一心で、言わぬつもりだったことまで打ち明けてしまっているのだった。 「おとうさまに話してみるとおっしゃっていました。どこまでも説得するおつもりだと」  ケリーは黙ってエマを見つめた。  その目が……そうなのそれは良かったわね、と優しく微笑んでくれているようで、喉の奥をつきあげる塊がまたごつりと大きくなる。 「……でも」  エマは瞬きをする。涙をこぼしてしまうわけにはいかないから。 「やっぱり無理です。現実的ではありません。考えれば考えるほど……階級《クラス》の違いがどれほど大きいかということは、よくわかっていますから」  だから、いいんです。  楽しい夢をみせてもらいましたから。もう、充分です……。  自分で自分の言えなかった胸のうちのせりふにうなずいて、気をとりなおし、もう一度タオルを湯で絞りなおそうとした時。  なにかかすかに触れるものを感じて、エマはハッと顔をあげた。  女主人の手が頬にあたっていた。左手の指の甲側を、うつむいて作業にかかろうとしていたエマの顔の左側に触れさせたのだった。包み込むようにではなく、かすかに、確かめるように。まるで、指の腹のほうで触れるなどして汚してしまうのを恐れるかのように、おずおずと。  指と頬の接点が、流せない涙のかわりに頬を伝っていくのを感じると、エマは雷《かみなり》に打たれたような気分になった。もう何もいうことができない。  わかっている。奥様はわたしの気持ちを知っていてくださる。  そして、なぐさめてくださっているのだ。 「だいじょうぶ」ケリーは請《う》け合《あ》った。「あなたなら」  エマはキュッと唇を結んだ。  女主人のベッドの片脇の床で、立《た》て膝《ひざ》をして。  涙をこぼさないでいるためには、ずいぶん気を張らなければならなかった。  タオルはもうすっかり冷たかった。  ラヴエンダーの香りがかすかに漂《ただよ》った。 「アーサーが?」  袖《そで》を通したチョッキの前たてを両手で浮かして落ちつかせながら、ウィリアムは言った。 「帰ってくるんだ?」 「さようでございます。寄宿学校《イートン》が卒業前の|長期休み《ヴァケーション》にはいるとかで」テレサ・ハミルトンは本日はご着用の栄に浴さなかったシャツやズボンを皺《しわ》にならぬよう気をつけながら衣装戸棚に仕舞っているところだ。「早いものですよ。ついこの間|ウィリアム坊っちゃま《マスター・ウィリアム》が学校をお出になったと思ったら、もうアーサー坊っちゃまの番なんですからねぇ。あっという間です。わたしは年をとるわけですよ」 「ふうん」 「お嬢さまたちも保養地からお帰りになられますし。久しぶりにご家族がお揃《そろ》いになられますね」 「そうか。みんなか」 「ええ」 「騒がしくなるな」ネクタイがなかなかうまく結べない。ウィンザーノットは何度やっても苦手だ。 「にぎやかになるとおっしゃいまし」 「ああ、やっとできた」  なんだかちょっと結び目がごつごつしてしまったが、まぁいい、別にどこに出掛けるわけでもなし。誰と逢うわけでなし。ただ、ちょっと……できれば、父と子の真剣な語らいというやつをやろうと思っているだけで。それにはとりあえず見た目ぐらい服装ぐらいきちんとしておかないといけないだろうと思ったのだが。 「……父さんは?」 「駅までお嬢さまがたをお迎えにおいでですよ」 「いないのか」ウィリアムは顔を曇らせた。「話があるのに」  駅からの一行の馬車が到着したのは、誰に言われずともわかった。邸のあちこちで召使たちが動きだす気配がしたから。目に見えぬ妖精たちのように密《ひそ》やかに慎《つつ》ましくあくまで人目につかぬようなすべき務めを果たすのが大切な役割の|階下の使用人《ダウンステアーズ》たちであるが、彼らとてしょせんは人間、肉体を持っている。いくら足音を忍ばせ息を潜ませようとしても限界がある。大勢が一度にひとつの方向に走れば、それと知られぬわけにはいかなかった。  先を争って飛び出していく侍女たち下僕たちのたくさんの靴のたてるかそけき音が、遠くに降る驟雨《しゅうう》のようにウィリアムの鼓膜を打った。  グレイスやヴィヴィアンはずいぶん好かれているんだなぁ、と思う。おかえりなさいませ、を言いにわざわざみんな、出向いていくんだから。  客が滞在していて立ち去る時にずらり二列に居並んで見送ることならば、召使でも上のほうの(つまり客人の目にふれることがあってもかまわないほうの)階級のものの役目であり特権であった。その時、滞在中のサーヴィスの対価として貰えるはずのチップが給金を補うのだ。思うほどの金額を貰えなかったりそもそも一銭も貰えなかったりした場合、その次にまた同じ客がきたならば、その客の要求や必要はしばしば無視されるか「誤解」されることになる。また召使同士の連帯は強く、噂《うわさ》が広まるのも早い。よその家のメイドにしたことが、まわりまわって自分の家の使用人たち全員の知るところとなり、じわじわと「仕返し」をうけぬとも限らない。○○家の旦那さま(あるいは奥様)はひどいかただ、許しがたい、となれば、どんな好条件でも求人に応えてくれるものがいなくなる。  召使の世界でブラックリストにでも載《の》ろうものなら、その家はほとんどおしまいである。いかに内情が苦しかろうとも、中流以上の家庭にはかならず少なくともひとりは使用人がいなければならない時代のことだ。優れたメイドや使用人を雇いいれることができるかどうかは、いわば上流階級として一流であるか否かと同様に、その階級のどこの家にとっても頭の痛い問題なのであった。  その点、一家の女たちが使用人たちから慕《した》われ好かれているとしたら、それは、たいへん幸運でお互いにとって恵まれたことであると言えるだろう。女は男よりも家につくものであるから。  ジョーンズ邸は、17世紀に煉瓦《れんが》で建てられたものに18世紀に入って三階を増築し、柱廊玄関《ポーチコ》や図書室をつけくわえるなどして均衡《きんこう》を整えた白亜の館である。  内装はあくまで重厚で、黒や臙脂《えんじ》色を基調とし、随所《ずいしょ》に渋く光る金の唐草模様を配している。  天窓からほのかに光がさしこむようにドラマチックに演出された中央大階段《グレート・ステアケイス》を、ウィリアムはぶらぶら降りていった。ちょうど、大歓迎を受けて入ってきた家族たちと大理石を敷きつめた天井の高い玄関ホールで逢うこととなった。 「ああー、着いたわ、着いたわ!」下の妹のヴィヴィアンがはしゃいだ声をあげている。 「やっと着いた。おうちがいちばん!」  お嬢さまがたのお邪魔にならぬよう脇のほうをすり抜ける侍女たちや下僕たちが、おびただしい数の衣装|鞄《かばん》やら帽子箱やらなにやらわからぬ包みやらを、せっせと運び入れている。 「ああ、嬉しい。やっと帰ってこれて。保養地なんて、大っきらい」ヴィヴィアンがむしりとるようにして分厚いコートを脱ぎ、そこらに放り出そうとするのをあわてて侍女が受け取めた。「ライム・リージスってもうちょっと面白いところかと思ったのに。あんななら、二度と行きたくないわ。あたしのことはもう誘わないでね」 「そんなふうに言わないで」上の妹のグレイスが上品にマフをはずし控《ひか》えた侍女に手渡しながら肩をすくめる。「いいところだったじゃない」 「どこがいいのよ」ヴィヴィアンはふくれっ面《つら》をした。「海ばっかり、日向《ひなた》ぼっこばっかり、みんなで座っておしゃべりしてばっかりなんだもの。毎日退屈だったらありゃしない」 「ヴィヴィー……」 「しかも、来てるのはお婆《ばあ》さんばっかり。おともだちになっていっしょに遊べるようなひと、ぜーんぜんいないんだもの。がっかり。お婆さんたちときたら、喉《のど》も腕もぴっちり覆《おお》った暑苦しいドレスをお召しになって、どこへいくにも日傘《ひがさ》さして。どうして海辺になんて来るんでしょう? どうせ座って噂話してるだけなら、ロンドンでいいじゃない。そう思わない? ねぇ、コリン?」  突然訊ねられたコリンは音をたてて息を吸い込んだ。 「あんなお婆さんたちが目にはいると、せっかくの休暇の気分がだいなしだって、あんたもそう思わない?」 「もう、止《よ》してちょうだい、ヴィヴィアン」  うんざりしたように言ったグレイスは、末っ子コリンの肩をゆすり、お姉様は冗談《じょうだん》をおっしゃっているだけなんだから、悩まないの、と、はげますように抱きしめてやった。そして、顔をあげ、階段の途中に停《たたず》むウィリアムを見た。 「いまもどりました」微笑《ほほえ》む。 「おかえり」微笑み返す。「ご苦労さん。父さんは?」 「あら? そのへんにいらっしゃらない? ほんのいま一緒だったんだけど」 「あん、ウィル兄さまぁ」ヴィヴィアンは長兄の手にぶらさがるようにして甘えた。 「もー、聞いてぇ! ほんっとにひどかったのよお。日焼けはするし、潮風《しおかぜ》でべたべたするし。あー、やっぱりおうちがいちばん。ロンドンがいちばん。田舎なんて、不便で退屈でたまらなかったわ」 「ラークさん家《ち》のお招きだったんだろ? 海辺の豪邸に滞在させてもらえるんだって、前々からずいぶんたのしみにしてたじゃないか」 「そうだけどお。あんなとこだって知ってたら、ぜったい、たのしみになんかしませんでした」ヴィヴィアンは拗ねる。「だって兄さま、あそこんちのひとたちったら、降っても照ってもブリッジばっかりしてるのよ。だったら、近くに海があろうとなかろうとぜんぜん関係ないでしょ。しかも、おじさまもおばさまもみんなみんなイカサマをするし」 「ヴィヴィー」グレイスがたしなめるが、ヴィヴィアンはとまらない。 「でね、お婆さんたちときたら、負けると、すぐ、もう一回やろうっていうの。ご自分が勝つまでぜったいやめさせてくれないの。たまにはひとに花を持たせてやろう、譲ってやろう、みたいな気持ちなんてぜんぜんないの。こどもだから大目にみてやろうなんて優しさもよ」 「たいへんだったんだね」 「ほんとよ」ヴィヴィアンはまだ止まらない。「懲《こ》り懲《ご》り。あのひとたちを小姑《こじゅうと》にするんだってわかっちゃったら、どんな娘さんだって、あの家の男性とはぜったいに恋に落ちないわね」  どき。  まだ若い、ほんの小娘といってもいい年頃の妹の口から、そんな台詞《せりふ》を聞こうとは。女の子はなんてませてるんだ!  だが陽気な爆弾娘ヴィヴィアンは自分の発言が兄の胸にどんな棘《とげ》を刺したかなどまるで無頓着《むとんちゃく》で、 「あ、アーサー兄さまだぁ! おかえりなさーい」  ちょうど現れて、執事に帽子を預けているところだったもうひとりの兄のほうに尻尾を振りにいってしまった。 「お」 「あ」  目があったので、互いに少しだけ手をあげた。男兄弟の挨拶は簡潔、あるいは意味不明である。  応接間《ドローイングルーム》に場所をうつして、お茶になった。 「おまえ、背伸びた?」兄が訊ねると、 「それ、逢うたび言ってる」アーサーは制服のタイを指で緩めた。「それより、庭の象軍団。あれはいったいなんなのさ?」 「……いろいろあってな」 「はい、どうぞ、監督生《プリフェクト》さん」グレイスがカップ&ソーサーをさしだす。 「ありがとう」 「監督生なのか?」ウィリアムが驚くと、 「うん……まぁね」アーサーは、たいしたことじゃない、と、かぶりを振った。「名誉《めいよ》なことだからうけた。いけなかったか?」 「いや、立派なものだ」ウィリアムは感心した。「面倒だろうに、よくやるよ。アーサーは真面目だからな」  次男はかすかにムッとした。  一瞬、良くできた弟らしく、黙って笑って受け流そうとはしたのだが、ウィリアムのいたって他意のない笑顔を眺めているうちにむずむずと不愉快《ふゆかい》になってきた。軽くため息をつき、紅茶を脇のテーブルに置き、開いてすわった膝の間に前のめりにからだを押し出すような討論をする構えになって言い足した。 「兄さんが適当すぎるんだろ。先々のこと考えたら監督生ぐらいやっておいて当然だよ」 「先々のことって?」 「僕は将来は法律家になるつもりだから。イートン同窓のつながりは将来にわたって財産になるに違いないんだ」  ウィリアムはぽかんと口をあけて弟を見た。 「なにか?」 「いや、驚いた」ウィリアムは頭を振った。「おまえはほんとに偉いな、アーサー。僕は、おまえの年齢の頃には、将来のことなんてとても考えられなかったよ。宿題をやっつけるのと、落第しないのと、怖い先輩に目をつけられて|下っ端《フアグ》にされないように逃げ回るのにせいいっぱいで」 「だから、のんきすぎるんだってば」アーサーは言った。「兄さんは。いまや20世紀も間近だというのに、少しのんびりしすぎなんじゃないか」 「あははは。すまん。確かにそうかもしれないが、まぁ、性分《しょうぶん》でな。どうも、そういうことに興味がなくて」 「長男なんだから。跡継ぎなんだから。もっと家のためになるようなことしてくれていいんじゃないのか」 「ちょっと、アーサー」調停役のグレイスが場をなごませるような声を出した。「いい加減にして頂戴《ちょうだい》。お兄さまのこといじめないのよ。第一、兄さまはちゃんと働いてくださってらっしゃるわよ」  やめてくれよ、と、ウィリアムは真っ赤になったが、 「お父さまの片腕として、我がジョーンズに欠くべからざる存在だわ」頼れる妹にしっかりかばわれてしまった。「それに、……そもそもアーサー、あなたがイートンに入れたのだって、兄さまという先例があったからじゃなくて?」 「わかってる」  アーサーは飲みさしのカップの内側をのぞきこんだ。 「給費生が増えれば経営がなりたたないし、貴族のお坊ちゃま揃いにしてしまうと学力程度がさがる。学校側は、貴族の学校という伝統を捨ててはいないだろうが、高い授業料を有り難がって納めてくれる親がいて、本人もこつこつ真面目に勉学に励むジェントリ階級の子弟……ぼくらみたいなの……こそが今、欲しいんじゃないかな。でもおおっぴらにそういうわけにいかない。どんな生徒を入れるかには神経を使う……学校の評判にかかわるから。その点、兄がいて、校風にもまぁまぁ合ってて、問題を起こしていなければ、あの家庭のこどもならば大丈夫だろうってことになる。試験や面接で同じぐらいの点なら、そりゃあ、兄弟のいるほうが受かりやすいんだろう」 「へぇ」ウィリアムは目を丸くした。「そうだったのか」  アーサーはカッとした。「なんだよ。そんなふうに他人事みたいに言うんじゃな」  ぱおーん!  いきなり間近に聞こえた破裂音に、アーサーは黙り込んだ。 「やあ」  開けてある窓の外、象の背にまたがった色の黒い美形が手を振った。 「久かただな、親友。家族|団欒《だんらん》のご様子だが、私もそちらにお邪魔してもかまわないだろうか?」 「ハキムさま〜♪」ヴィヴィアンが窓に駆け寄る。 「……ともだち、選べよ」アーサーはウィリアムにだけ聞こえる声で言った。 「海辺の社交はどうだった」ハキムは滝れてもらった紅茶をうけとりながら、グレイスの目をまっすぐに覗《のぞ》き込《こ》んだ。「わたしは美女がふたりもいなくなって、あまりにつらくて寂しくて、毎晩さめざめ泣いていたぞ」 「光栄ですわ」グレイスは婉然《えんぜん》と微笑んでみせた。「でもハキムさま、あいにくと先約がございますのよ」 「それは残念」ハキムもあくまで真剣この上ない。 「わたし! わたしないわよ先約!」とヴィヴィアン。 「……グレイス?」ウィリアムがあわてて口をはさむ。「先約って……いつの問に?」 「兄さまったら知らなかったのね。姉さまってもてるのよ」 「やめてヴィヴィアン。それを言うなら兄さまにだって、素敵なお相手ができたところでしょう」  ハキムが黒スグリの瞳をキョロッとさせてウィリアムを見た。  ウィリアムは呆然とした。「それ……なんでグレイスが?」 「きゃっ、ほんとに、そうなの、そうなの?」 「ごめんなさい」グレイスはクスクス笑いを手で隠した。「ひょっとすると、公式にはまだ内緒なことだったのかしら? でもあの子、すごく嬉しそうに手紙に書いてきたのよ。可愛かったわ」 「あの子?[#「あの子」に傍点]」ウィリアムがまだ呆然としたまま眩いた。 「あら、失礼、あの子呼ばわりなんてしてしまって。子爵令嬢ですものね、ミス・エレノア・キャンベル、と、ちゃんと申し上げなきゃいけなか……」  いわく言《い》い難《がた》い空気を微妙に感じて、グレイスは唐突に黙り込んだ。  なにかまずかったかしら? 眉をひそめる。 「……エマ」  インドの王子が呼ばわると、平凡な名が不思議な響きを帯びた。  一座の注目を集めて、ハキムは、平然とみなを見返す。 「エマ。エマさんっておっしゃるの!」ヴィヴィアンがはしゃいだ声で叫んだ。「素敵なお名前じゃない! ウィル兄さまの思いびとさんって、どこのかた? どんなかたなの?」 「……どんなって」ウィリアムは口ごもった。 「ね、ね、わたし逢ったことある?」 「ないよ」 「公爵さま? 伯爵さま?」 「違うよ」 「兄さんにゃそんな大家のこ当主はつとまらんだろ。準男爵家がせいぜいじゃないか」 「だから……」  ウィリアムはかぶりを振り、息を吐き息を吸い込んだ。 「そんなんじゃないったら。……エマはメイドだよ。ストウナー先生んちの」  さっきよりもよりいっそう重たい空気が、部屋を圧した。 「メイド?」  アーサーは、生まれてはじめて聞いたかのようにその単語を口にし、うるさいヴィヴィアンはあんぐり口をあけたまま黙り込み、コリンはグレイスの腰にしがみついた。 「そりゃあ……」ウィリアムは言った。「いまはメイドだけど……」 「嘘だろ」アーサーが問う。 「嘘なもんか」 「本気か?」 「本気だとも」 「なに考えてるの!」 「あきれたな。いくら兄さんでもそこまで常識はずれだとは」 「わたしぜったいイヤだからそんなひと!」ヴィヴィアンは半泣きだ。「そんなひと、お姉さんって、呼べるわけないじゃない!」 「どう考えてもおかしいって子供にだってわかるだろ」 「どこにでも例外はある」 「だからそういう問題じゃないんだって!」 「なぜそうなるの。誰かとめて。兄さま、へんよ、おかしい!」  年少二名はどんどん声が大きくなり、おまけに発言が過激になる。グレイスがおろおろしてなんとか仲裁しようとするのだが、とてもじゃないが割ってはいることができない。コリンは怯えてそのグレイスにしがみついたままだ。  ハキムはあくまで感情をにじませぬ顔つきで、きょうだいたちの様子をうかがっているばかり。 「兄さまね、ご自分の家をなんだとお思いなの。勝手よ。ひどすぎる。わたしたちのことなんかどうでもいいの!?」 「だいたい兄さんは、いつも考えが甘いんだ。自覚が足りない」 「そこまで言われる筋合いはない」 「あるだろこれは!」 「うちはね、かりそめにも、ジョーンズ家なのよ!?」 「……ヴィヴィー、いいからちょっと黙れ!」 「こっちのセリフ。わたしが話してるのよ!」 「なんだ騒々しい」  低い声にアーサーとヴィヴィアンがあわてて振り返ると、 「帰る早々なにを大声を出している」  父リチャード・ジョーンズが立っていた。  父は展示室《ギャラリー》の一角を在宅時の執務に使っている。  ジョーンズ家にはご立派な先祖はあまりいないから私的な肖像画は多くない。海岸風景、ピースの丘など、この国のさまざまな風景を描いたいろいろな作家の小品が点々と飾られてある。  窓を背にした執務机に座をしめて、父はウィリアムの話を聞いた。とりあえず、ひと区切りつくところまでは黙って聞いてくれた。そして…… 「ならん。ありえん」きっぱりと言い切ったのだった。「いい加減に頭を冷やせ。世迷《よま》い言《ごと》など、聞く耳もたん」 「世迷い言ではありません」ウィリアムは食い下がった。「錯覚でも、一時の迷妄《めいもう》でもありません。真剣な気持ちなのです。認めてください」 「ならん」 「彼女は他のメイドとは違います。逢えばわかります」 「逢わん」父は、デスクの上で両手を組んだ。 「わざわざ逢ってみる必要などない」 「話してみていただけば、きっと彼女の非凡なひとがらが」 「ひとがらが問題なのではない」父は痛ましいような顔で息子を見た。「当主であるわたしが逢いなどすれば、只事《ただごと》ではすまない。その女性が傷つく」 「思いやってくださっているとでも?」 「そうだ。婦人には色々な役割がある。晩餐会、舞踏会、茶会の主催《しゅさい》。それぞれの場にふさわしい会話や気遣い、身につけておくべき教養などがあり、|正しい発音《クイーンズ・イングリッシュ》で話さねばならん。上流階級の奥方というのは、重大な役割なのだ。一介のメイドに勤まるとは思えん。その女性に、自《みずか》らの至らなさを思い知らせ、恥をかかせたいのか?」 「父さんは昔おっしゃいました」息子はやり返した。「ひとは紳士に生まれるのではない。紳士になるのだと。女性もまたそうなのでは?」 「馬は素質と訓練次第で名馬にもなる、ダービーにも勝つ。だが猫は馬にはならぬ。前提というものがある。馬になれといわれても猫も迷惑だろう。それでも我を通そうと言うのは、みなが前提としているものを前提とせぬ、つまり、階級《クラス》そのものを拒絶するということだ」  ことばが途切れたらすぐにも言い返そうと身構えていたウィリアムを、じっと見つめる。 「ウィリアム、お前は当家の跡継ぎだ。先代や先々代が営々と築き上げてきたジョーンズ家の後継者だ。私のことは置いても、兄弟姉妹、スティーブンス以下この家のあまたの使用人、また〈ジョーンズ〉に勤務するものたち全員に対する責任というものがあるだろう。そのことを、考えたことはないのか」 「そうよそうよ!」ヴィヴィアンが拳《こぶし》を固め、 「シッ、静かに」アーサーに小突かれた。  言及された兄弟姉妹たちはドアのこちら側、廊下の外から、聞き耳をたてていたのである。 「自分のわがままのために責務を放棄《ほうき》するのか。生まれながらにしてあたえられた恩恵の分量に見合うにすぎぬ当然の行動を拒《こば》むというのか。おまえはそういう人間か」  ウィリアムは答えに窮《きゅう》した。  そうではない。  家族を裏切るとか、責任から逃げ出すとか、そういうことをしたいのではない。ただ、なによりも自分のこころに真っ正直に生きていきたいだけだ。  だが、うまく説明できない。この父をうまく説得するべき言葉がみつからない。 「楡の木に芦《あし》を接《つ》ぎ木《き》しようなどと考えるな。楡は丘に、芦は水辺に生えているのが自然で正しいことだ。自由と無秩序《むちつじょ》は違う。そのことを忘れるな」  ウィリアムは無言のまま辞した。  廊下でたまさかハウスメイドたちとすれ違った。エマと、ほとんどそっくりの、質素な黒い服と純白のエプロン、フリルキャップの女中たちと。  女中たちは慎ましく後ろにさがって坊っちゃまを通す道をあける。  ウィリアムは顔をそむけた。 「だからね……メイドです、でも、実は、伯爵令嬢でした! っていうならわかるのよ」ヴィヴィアンは頬を紅潮《こうちよう》させながらまくしたてた。「幼い頃に誘拐《ゆうかい》されて捨てられてもう少しで死ぬところだったのを、貧しいけれど親切なひとに拾ってもらって育ったとか! そのことを示す証拠の秘密の品がでてきたとか! ずっと前にアメリカにいってしまった婦人が、亡くなる時になってはじめておまえはほんとうはわたしの生んだ娘だったのよって告白の手紙を送ってよこして、すっごい莫大《ばくだい》な遺産と高貴な血筋だった証拠をバッチリ残してくれた、とか! ……ねぇ、あるでしょう、そういう話が。これ、そうじゃないの? それならわかるわ。そうならいいのに!」 「通俗」アーサーが切って捨てる。「しかも予定調和」 「だったらなに? シンデレラだって初登場シーンはオンボロな服着て床磨きよ。なのにお城の舞踏会でヒロインになるのよ!」 「お伽話《とぎばなし》ですもの」グレイスはコリンを抱いたまま、悔し泣きに目を赤く腫《は》らしたヴィヴィアンにそっとハンカチを差し出した。「いいひとは幸福になり、悪いひとは成敗《せいばい》されるの」 「それのどこがわるいのよ」ヴィヴィアンは洟《はな》をかんだ。 「指摘してわるいけどね、サンドリヨ|ン《※》[#※サンドリヨン/シンデレラのこと。]はもともと階級低くないだろ?」と、アーサー。 「前の奥さんの娘だったんだから、彼女の血の示す位置は継母や義理の姉たちと同じさ、同等だよ、まったく変わらない。ただ、たまたま、嫉妬《しっと》されて意地悪をされて、小問使いみたいなことやらされただけ。ほんとにメイドだったわけじゃないんだ」  思慮深い次男は心配顔の妹たちを順繰《じゅんぐり》りに眺め、そうだろ? と片眉をあげた。 「しかも」ハキムがぽつりと言う。「彼女の名付け親は、善《よ》き魔女だった」 「そうだね」アーサーはうなずいた。「それもある。それが大事だ。……おとぎ話だから」  兄弟姉妹と親友一名は、浮かぬ顔を見合わせる。 「……ストウナー先生、実は魔法使いだったり……しないよね」ヴィヴィアンが言う。 「無理いわないで」グレイスが小さく、ため息まじりに、ことばを洩らした。「お兄さま……いったい、どうなさるのかしらね……」  いつの間にか図書室まで戻っていた。  デスクの上のインクはきちんと補充され、袖つき椅子は壁と直角になるよう置き直され、皺になっていた掛け布はよく糊のきいた清潔なものに取り替えられている。どんなに散らかして出ても、いつの間にか片づいているのだ。目にみえぬ妖精たちが働いたかのように。  大きなガラス窓から差し入る陽差しはどこまでも明るくあたたかい。おもては美しくも晴れやかな四月だ。ウィリアムは立っていって窓覆を閉めた。  医師はベッド脇の小椅子に腰かけて、横たわるケリーを数分診察した。エマは壁際に控えて待った。医師がぼそぼそと何か訊ねると、女主人は掠《かす》れた声でなにか答えた。  やがて医師は耳から聴診器をはずし、帰《かえ》り支度《じたく》をはじめた。立ち上がり際、エマのほうに顔を向け、よくないね、というようにゆっくりと横に振った。  玄関ホールで、コートをまとい、帽子を被り、診察鞄《かばん》を抱えなおす。 「なにぶん、お年ですからな」  医師は言った。 「お気を強く」  エマはなにも言わず、ただ深々と頭をさげた。  その晩、エマは女主人の寝室の床に寝床を取った。  そうしていいかどうか訊ねて、許しを得ることなく。  というよりも、むしろ、ほんとうにそんなところで寝る気なの、といぶかしがられ、迷惑がられすらしたのに、このほうが便利ですからと、彼女にしては珍しく我を通してみせたのだった。 「いつでも声をかけてください」  エマは言った。 「どんな小さなご用でも。すぐに起きますから」 「いいのよ、エマ」  ケリーは言った。  どちらにもわかっていた。メイドがそばに控えようとするのは、夜半《やはん》に万一のことが起きては、と案じたからなのだと。そしてどちらもそのことを口にしようとしないのだった。  万一のこと?  ケリーは自分で自分を嘲笑《ちょうしょう》する。  なにが万一なものですか。人間の死亡率は歴史はじまって以来ずっとちょっきり百パーセントじゃないの。欺瞞《ぎまん》だったらありゃしない。 「消しますね」  エマが言って、ランプに手を伸ばした。  ガラスの火屋《ほや》に黄色く明るんだ炎が、横顔の彫りを深くした。  ケリーの眼は一瞬まぼろしを見た。まだ幼い、引き取ったばかりの頃のエマの顔を。いまとそっくりに寡黙《かもく》で真面目で控えめで、だがまだ自信なさげで不幸そうだったひ弱な少女を。後に発揮する聡明さの輝きを隠して、磨く前の宝石だったエマのことを。  瞬きする間に時は逝《ゆ》き、幼い少女は年頃の娘になる。ついこないだのことのように思われるその時はすでに何年も過去のものであるのだった。  ……年とるわけだわ、ケリーは思う。 �万一のこと�も、近づきもする。 「おやすみ、エマ」 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 8 " Alone "  第8話 ひとり [#ここで字下げ終わり]    ──はじめてここに来た時、わたしは十二歳だった。  長い階段を上り詰めた屋根裏の使用人部屋は、古くて狭く、床がでこぼこで、ところどころ釘《くぎ》が出ていて、大雨が降ると雨漏《あまも》りまでして……正直、とても居心地が良い処だとは言えなかったけれど、自分の部屋なんてものを持ったのはもちろんそれが生まれて初めてだった。  ひとりで、好きに使っていい部屋。  信じられないほどの贅沢《ぜいたく》。 「ここを使って」  ストウナーの奥さまはそうおっしゃった。  わたしはおそるおそる部屋の中に入り、まんなかに立って、ゆっくりとあたりを確かめた。……大きく傾いた天井、ぎしぎしいう床板……古い小さなベッド、小さな棚、小卓、箪笥《たんす》、……そして、ガラスのはまった縦長の窓!  胸をどきどきさせながら、窓に近づいた。指をおしあて、掌《てのひら》でたしかめ、鼻をくっつけんばかりにして、外を眺めてみた。  窓はいつも、わたしを、外側に追いやるもの、締め出すものだった。  窓の中には明るい光や温《あたた》かな暖炉《だんろ》や美味しそうな食事があり、幸福そうな家族がいるのだ。  それまでわたしはいつもそういうものを、外から、……路地裏のじめじめした暗がりから、雪降る夜の震《ふる》え上《あ》がるような寒さの中から……かじかむ指を息で温《あたた》めながら眺めることしかできなかった。  内側から見た窓の際《きわ》には、なにか、でっばりがついていた。  これはなんだろうかと不器用に弄《いじ》っていると、奥さまが手を添《そ》えて、掴《つか》みかたを教えてくれた。把手《とって》だったのだ。 「少しコツがいるの。こう……押しながら……そうよ」  ……窓は……開いた。  風が突然のキスのように顔に吹きつけてきて、わたしの髪を全部うしろになびかせた。  そうして……窓というものは、実は簡単に開けることができるものだったのだ、と、わたしはその時知ったのだった。  驚いた。  ……開くんだ……。  すると 「あなたの部屋よ」  奥様がおっしゃった──  よく磨《みが》かれた球同士がぶつかって弾《はじ》きあう、重たいが澄んだ音が部屋に響く。  カツーン、とそんな音がして、いまブルーに塗った球がポットした。ごとごと言いながら、台の隅《すみ》にある穴《ボケット》に落ちていったのだ。 「ライフ」  ウィリアムは憂鬱《ゆううつ》な顔でいうと、スコアボードの自分の欄《らん》のライフマークをひとつスラッシュで消した。  ふふん、とロバートは微笑《ほほえ》み、台の周辺をゆっくりとめぐって、撞杖《キュー》をかまえなおすべき位置を探した。やがて、深緑色の羅紗《らしゃ》に左手指を大きく張ってがっしりとした支えを作り、関節と関節のくぼみを利用して撞杖を載《の》せる。あくまで低く固定した姿勢のまま、利き手の肘《ひじ》関節を軽く開くようにして押し出すと、杖先はロバートの手球である白球を撞《つ》き飛《と》ばし、白が赤にぶつかって、それを弾いた。  ハキムの目がスッと細くなる。  テーブルがわりにするとしてもそうとうに大型の長方形の台の四隅と長辺の中央の六ヶ所に、ポケットはある。隅のポケットのひとつに、赤い球がまっすぐに突き進んだ。もう少しで落ちそうなところまでいったが、あいにく勢いがよすぎた。ぐるんとはじかれて、ぎりぎりのところで残ってしまう。 「ああー。失敗」ロバートは笑った。「また、ハキムくんの勝ちだ」  ライフプールと呼ばれる形式のゲームだ。ロバートが白、ハキムが赤、ウィリアムが青を自分の手球にしている。勝負相手の手球が的球となる。手球を撞いて、的球を落とせば、ライフを取れる。ライフ三つで敗北だ。  ウィリアムやロバートの属しているクラブでは、撞球《ビリヤード》はあまり盛んではなかった。おかげで撞球室が無人なのはありがたかったが、達人ハキムのめがねにかなう赤球がそろっていなかったので、ピラミッ|ド《※》[#※ピラミッド/十五個の赤球と白い手球を使った賭けゲーム。これとライフプールを組み合わせたものが英国で盛んになったスヌーカーだが、ルールブックができたのが1900年なので、エマの時代にはまだ普及していないことになる。]はできなかった。 「つまらん。これは易《やさ》し過《す》ぎる」球を所定の位置にならべなおしながら、ハキムは言った。「きみたちスリークッションはできないのか?」  白球で赤球二個を狙い、最初の赤と次の赤の間には、台の枠で最低三回は|跳ね返り《バラッド》をさせなければならない、緻密《ちみつ》な計算と高度な技術が必要な、撞球でもっとも難しい種類のゲームだ。 「わたしはスリークッションを駐印英軍の将校連中から教わった。最初二年ばかりはさんざん毟《むし》られて、父の宝物蔵からいろいろ持ち出したりしていたが、近頃は連中から巻き上げる一方だ。この前は、軍用拳銃を倉庫二つ分ほど勝ったが、泣いて謝るから返してやった」  ロバートは苦笑した。 「それはすごいな。あれは確か台がちがうんだろう」 「そう、大きさも違うし、ポケットなどというものはない」 「やれやれ。うちのクラブにスリークッション台がなくて、僕らはほんとうに助かったよ」ロバートは撞杖を小脇に挟《はさ》んで退《しりそ》いた。「ウィリアム、きみの番だぞ」 「……あ? ああ」  ぼんやりしていたウィリアムは、息をつきながら緑の羅紗を張った台に近づいた。撞杖をとりあげ、そのまっすぐな線をものさしがわりに、片目をつぶって、手玉と的玉の角度をあれこれ検討する。  球のどのあたりを、どのぐらいの強さで撞くか、そのふたつと、台に張られた羅紗面の具合が、磨かれた球にさまざまに複雑な動きをさせる。ひねられたり、カーブしたり、走ったり、戻りぎみになったり。時には、ピョンと飛びあがったりだってする。  さらに、手球を的球のどこにどういう角度でぶつけるのかまで加わると、撞球台の上ではほとんどありとあらゆることが起こるといってもいい。たんなる球がふたつみつ、それだけの物体が、実に思いがけないドラマを演じてみせてくれるのだ。  思いがけない。  ──自分のわがままのために責務を放棄《ほうき》するのか? 生まれながらにしてあたえられた恩恵の分量に見合うにすぎぬ当然の行動を拒《こば》むというのか?  父に言われたことばが胸に重い。  父の角度からみれば、これはそういう問題なのだ。  だが、自分にとっては、  ……しばらく逢《あ》ってないなぁ。  どうしているんだろう、エマさん。  またどこかでばったり偶然に出会えたりしたらいいのに…… 「遅い」  ハキムが冷たく言う。 「待ちくたびれた」  ウィリアムは苦笑いをした。 「すまないね、いま撞くから」  静止している球を、まっすぐな棒で撞く、ただそれだけのことなのだが、これが案外難しい。素人ほど、どうしてもいらぬ力がはいってしまい、狙っていたところとは違うところを撞いてしまいがちだ。精神集中がなにより必要で、一点ここときめたら、無欲にそこを撞ききるまで気を逸《そ》らさないのが良い。  ウィリアムが撞杖を動かそうとした瞬間、 「エマ」  インドの王子がぽつりと言った。  ……すかっ……!  撞杖が白球の横面をすべった。 「な、なんだよッ!」ウィリアムは真っ赤になった。「ひどいじゃないか、なんだってまた!」 「……はどうしているかなぁ、と、でも、どうせ思っていたのだろう」藩王の息子は台枠からチョークをとりあげて撞杖の先端の革の部分にこすりつけた。「なかなか撞かないきみが悪い」  図星なので、なにも言い返せない。 「では、わたしの番だ。究極のマッ|セ《※》[#※マッセ/ビリヤードの球を高い位置から撞くことで強い回転を発生させ、球に大きなカーブをかけ、的球に当てる技。]を見せてやろう」  ケリー・ストウナーの体調は思わしくなかった。  足を痛めて歩行が困難になって以来、だんだんに疲れやすくなり、気力が続かなくなった。お気にいりの袖《そで》つき椅子に腰掛けて本を読んだり刺繍《ししゅう》をしたりするという、これまでいつも好んで一日のほとんどを費やしていたたのしみごとさえも、だんだん面白くなくなり、おっくうになってしまった。  物事が整然としていることが好きな性分《しょうぶん》のケリーにとっては、たとえば、食事は、きちんと改まった服装で、背筋を伸ばして食卓について、正式のマナーに則《のっと》って行われるべきものである。多少具合が悪くても、誰に見られるわけでなくとも、そうすることが気持ちよく、そうしないと落ちつかない。そんなふうに一生、暮らしてきたのだ。  寝間着姿でベッドに寝たままでは、食欲もわかない。  かといって、起きて、きちんと身支度《みじたく》をして……という気には、とてもなれない。もともと、特になにも食べたくないのだから、そんな途方もない苦労をしてまでなにかを食べなければならないなんていやだ、と思ってしまう。  食べないと、ますます体力がなくなって、治るものも治らない。そうだということはわかっていたが、全身を目に見えぬ網で巻かれてでもいるかのような閉塞感《へいそくかん》、重苦しくまとわりつく捲怠感《けんたいかん》に、抗《あらが》う術《すべ》がありはしなかった。朝、目覚めて目をあけて、今日もまた一日がはじまるのかと思うだけで、もう、ぐったりしてしまうのだ。  エマは心配して、さまざまに工夫してくれる。横になったままでも喉《のど》を通りやすいように調理したり、以前ケリーが好んで食べたものを市場をめぐって必死に探し出してきてくれたり。  その思いを無駄《むだ》にはしたくないから、少しは匙《さじ》をつける。できれば、一口でも、食べたように見えるといいと思う。  だが、たぶん、無理だろう。  実際にはほとんど食べていないことに、エマが気付かないわけがない。心を痛めないわけがない。  なにか、召し上がりたいものはありませんか。これなら食べられるかもしれない、というものが……。  そうねぇ……。  スープなら。くだものは。紅茶だけでも。蜂蜜《はちみつ》で甘くして。  いまは、いらないわ。  なにか、少しは、召し上がってください。  懇願《こんがん》するように言われても、食べられないものは食べられない。  ケリー自身にも、どうすることもできなくて、申し訳なくて、エマの看病疲れで少し潤《うる》んだような目から顔をそらす。  エマは、淡々と働いた。できる限り、なるべくいつも通りの生活を守り続けた。洗濯《せんたく》をし、掃除をし、お茶を|沸《わ》かす。ふだんのままの家事を律儀にこなして。  規則正しい、きちんと真面目な暮らしぶり。平穏《へいおん》な日常。  それが、ケリーの望みなのだから。  変化は、ささやかなものでも、乱調に通じる。突発的に多少なにかがあっても、いちいち動じず、あくまで落ち着いて、あたかもなにもかも正常であるかのように過ごすほうがいい。  とはいえ、ケリーの気分をなんとか少しでも華《はな》やがせたい一心で、部屋に飾る花はこまめに取り替え、ここちよい風の吹く日は、何度も出入りして、風向きにあわせて窓をあけたりしめたりした。  特に寝苦しそうな夜は、香りのよい蝋燭《ろうそく》をあかあかとともし、片づけものを後回しにしてでも、女主人の好きな本を朗読した。  ふだんより、少しだけの贅沢《ぜいたく》。少しだけの逸脱。  それにケリーも気付いていないはずはなかったが、もったいないからやめてちょうだいととがめられはしなかった。メイドの判断で勝手にするさしでがましいことがらを厳しく叱ってもらえないことが、エマには少し寂しく、悲しかった。  週に何度か往診にきてくれる医師は、はっきりしたことはなにも言わなかったが、ケリーの具合があまり良くないこと、僅《わず》かずつながら、悪いほうへ向かっているらしいことを匂わせた。あなたもそろそろ、なにかあった時の準備をしておくように。そんなふうに言われても、信じられず、信じたくなく、直視したくなくて、エマは、わざと心をそちらにむけないようにしていたのかもしれない。  女主人の寝室に床をとるようになって、何日めのことだったろうか。  ある早朝、エマは、なにかの気配に目を覚ました。  あたりはまだ暗い。真っ暗で、なにも見えない。  夜明けよりも前だ。  ふだんの家事に看病が加わり、なにかと気を張っているものだから、さすがのエマの心身にも拭えぬ疲労がたまっている。目覚めてしまったことを意識してもパッと動きだすことができず、軽く寝返りをうちながら、いったい何故《なぜ》いま起きてしまったんだろう、なにが自分を目覚めさせたのだろうとぼんやり考え……  はっ、として、飛び起きた。  とっさに眼鏡をさぐったが、手に触れない。焦《あせ》るあまり、枕元のなにかを倒してガタンと音をたててしまった。なのに……静まり返っている。不自然なほど。  自分の呼吸音がざわざわと耳を圧した。  真っ暗だ。どんなにいっしょうけんめいに目を開いても、なにも見えない。どこまでも闇。こんなに暗いのでは眼鏡があろうとなかろうと関係ない。長年勤めてきた部屋だ、勘で進んで、間違いなく女主人の寝台にたどりつく。 「奥さま」  しゃがみこみ、ケリーの居るはずのあたりに向けてささやいた。 「奥さま」  少し大きな声で言い、ベッドにかけた手をわずかに動かして、揺すった。  返事がない。  気配がない。  漆黒《しっこく》の闇の中に、エマは震える手を伸ばした。なにかに触れた。  冷たい。  エマの心臓が魚のようにびくんと跳ねた。  そっと、たどる。さぐる。鼻と唇のかたちがわかった。動かない。呼吸をしていない。  もう、息がない。  エマのからだから、すとん、と力がぬける。闇の底、その場の床に座り込んでしまう。  あまりにもあまりにも真っ暗な闇……だが……ようやく夜明けがはじまったのか、ずっと闇を凝視し続けて目が慣れたのか、ぼんやりと朧《おぼろ》げなかたちがあるのがわかった。  眼鏡をかけていなくても、はっきり見える気がした。瞑目《めいもく》し、静かに仰臥《ぎょうが》する女主人の姿が。心の目に、見える気がした。  死す時にもなお、おのれを律し続け、なんら騒ぎも乱れも生じさせなかった。苦しがって、叫んだりもがいたりは一切なさらなかったようだ。  それでも……あるいは、最後には、なにかごく小さく言葉を洩らしたか、尋常ではない息をなさりでもしたのだろうか? ……その、微細な気配が、眠っている自分を揺り起こしたのかもしれない、とエマは思った。  孤独で、静かで、慎《つつ》ましやかな、死。  とても奥さまらしい。  エマは両手を祈りのかたちに組んで、頭《こうべ》を垂《た》れた。まぶたを伏せ、涙が頬《ほお》を流れ落ちるにまかせた。  家じゅうのブラインドがきちんと降りているかどうかを確認し、カーテンもみな閉め、掛け時計をとめた。  リネンを持っていって、鏡という鏡をすべて覆《おお》った。  早暁《そうぎょう》の街に出て、医者の家まで走った。医者の家の使用人にことづけをして、またすぐに戻った。  女主人の動かない手をそっと握ったまま、待った。どのぐらいそうしていたのかわからない。エマの耳には、玄関の呼《よ》び鈴《りん》を鳴《な》らされる音はまったく聞こえなかった。  医者が勝手に戸口から入ってあがってきてくれたのが眼にはいってはじめて、玄関を開けっぱなしにしていたらしいことに、ぼんやりと気付いた。  医者は脈を取り、聴診器《ちょうしんき》をあて、顔をしかめた。もう一度あて、長々とため息をつき、首を振った。チョッキのポケットから懐中時計を出して時刻を確認し、自分の掌《てのひら》にメモを書いた。死亡届をだすためだ、とエマは思った。お医者がそれを確認した正確な日付や時刻をきちんと記入するため。  ……いや。  言えない叫び声が塊《かたまり》になって喉をごつごつ突き上げる。  出さないで。  届けなんて出さないで。  出したらそれが事実になってしまう。もうすんだことになってしまう。確定してしまう……!  医者はエマのひたむきな視線に気付いて顔をあげ、悲しげなまなざしでしばらくじっと見つめかえしてから、深い同情をこめてうなずいた。  エマは、みるみる何かが決潰《けっかい》するのを感じた。あふれた涙で視界が曇《くも》り、全身が脱力してしまう。こめかみのあたりがじいんと痺《しび》れて現実感が希薄になった。  医者は、エマの肩にそっと手をかけると、無言のまま部屋を出ていった。  ちゃんとお玄関までお見送りして、帽子《ぼうし》と杖をお渡ししなければ。エマの一部はメイドらしくそう考えていたが、動くことはできなかった。  エマがケリーの傍《かたわ》らで荘然自失《ぼうぜんじしつ》していると、まず、隣家の召使が、それから近所のひとびとがやってきた。医者がエマの様子を心配して、帰りがけに声をかけていってくれたからだった。  たまにすれ違う時に挨拶《あいさつ》をするひとなどが、ぞくぞく駆けつけてきて、何か言ったり、彼ら同士で話をしたりしていたが、全員、まるで水を通してみた影のようで、ゆらゆらもやもやしてばかりで、エマにはよくわからなかった。とんだことだったわね、急であんたも驚いたでしょう、どんなに同情をこめて話しかけられても、誰が誰やら区別もつかず、はかばかしい返事もできなかった。  ケリーと募金活動などの社会奉仕を一緒にしていた老嬢シャーロット・グレアムがテリアをつれてやってきて、そのテリアが誰にもとめられないのをいいことに家じゅう好きに走り回ってひとを驚かせているのがぼんやり耳にはいっていたが、それすら、他人事のようであった。  エマが動けなくなっているので、こういうことに詳しい誰かが采配《さいはい》をふるって、葬儀の手筈《てはず》を整えた。  魂《たましい》がきちんと肉体を離れて天国に昇っていけるように、亡骸《なきがら》のある部屋のドアは、開け放しにされた。遺体の胸には聖《きよ》められた塩が置かれ、頭の上のほうには台座を置いて蝋燭が一本灯された。弔いの期間、けして絶やしてはならない火だ。外階段に藁《わら》を敷いて、ここが死者の出た家であることを、通行人の誰にでもわかるように示した。  気がつくと、ひとりになっていた。  ひとけのなくなった黄昏《たそがれ》の庭を、エマは無言で歩いた。わずかにぬかるんだ通路には、大勢の行き交った足跡がある。ケリーの死を知って弔問《ちょうもん》に訪れた近所のひとびとの、大小さまざまな足跡が。誰かが散らしたらしい紙屑《かみくず》を、エマは拾った。  と。  地面に指先を伸ばしてかがんだままの顔が、わずかに曇る。  エマの視線の先、楡《にれ》の木の根本に、半《なか》ば泥をかぶってくしゃりとつぶれた緑がある。誰かの無神経な靴が踏みにじったのだ。そこにそれがあるということにまったく気付きもせず。悪意もなく。生命を奪った。  あのスズランである。  なんとか蘇《よみがえ》らせてやることができないか、様子を見てみたが、茎の中途が完全に折れてしまっている。もしかすると、球根はまた復活することができるかもしれないが、今年は咲かないだろう。  小さな、まだスズランだということがよくわからない花が、もう咲きかけていたのに。  エマは小さく頭を振り、顔をあげる。涙がこぼれないように。夕暮れ色に染まりはじめたロンドンの空を鳥の群れが飛んでいく。目だけで追い掛ける。  鳥がにじんだ。  あたりはとても静かだ。  窓が覆われた薄暗がりの部屋、エマは、亡骸の傍らに腰をおろす。  女主人は亡くなった時の寝間着ではなく、一番好きだった淡紫色のドレスを着て正装した姿だ。  療養《りょうよう》期間中に痩《や》せてしまったケリーだったが、きちんと髪を結い、身繕《みづくろ》いをすると、凛《りん》としたこのひとらしさがまたふたたび宿ったように見えた。  いまにも目を開け、上体を起こして、何か言いそうだ。  ──ふだんと、変わらないのに……  エマは思った。  どこも変わらないように見えるのに。  奥さまはもうここにはおられない。  つい昨日まで、ゆうべまで、あたたかな生命の宿っていたこの容器が、いまはもう空っぽの、ただかたちあるだけのものなのだ。  それが……あたりまえのことでありながら……とっくにわかっているはずのことでありながら、どうにも不思議でならなかった。いまはもう動かないこの身体が、充分に機能し、生命を持ち、たとえば、おやすみエマ、と声をかけてくれたことすら、夢のように遠い、信じがたい記憶のようだった。  今朝も、いつも通り、おはようございますが言えると思いこんでいたのに。  おやすみ、エマ。  ただそれだけ。それっきりしか、話さなかった。思えばそれが奥さまからいただいた最後のことばとなった。  せめて、明日はいい天気なようですとか、もうじきこんな花が咲きますとか、なにか素敵な会話をすればよかったのに。まさかそれっきりになるとは思いもよらず。なにげない、夜の挨拶、ただそれだけで。  ありがとうございますとさえ、言えなかった。  長年、居心地よく奉公させてもらった礼を、言えなかった。  寂《さび》しさと悔《くや》しさにまた熱いものが喉をゴツゴツ突き上げてきたが、しかし、ケリーと自分にとっては、それでよかったのかもしれない、とも思う。儀礼的な会話は、似合わない。仰々《ぎょうぎょう》しい別れのことばなど、必要なかったのかもしれない。  ふたりがすごしたのは、日常だったから。  くる日もくる日も、なにもない、きのうとかわりばえがしない、ありがちの、ごくふつうの一日だったから。  そんな日々が……どんなに幸福だったか。貴重だったか。  ありがたかったか……!  またこみあげてきた涙を拭いて、深呼吸を何度もして、せいいっぱい気をとりなおした。  廊下に出ると、煙が香った。  振り向くと、廊下の行き止まりの窓の暗がりに、アルが立ってパイプを吹かしていた。  いつから待っていてくれたのだろう。 「大丈夫か」  エマは黙ってうなずいた。 「出ないか? コーヒーでも?」  エマは首を横に振った。 「……どこにもいきたくないか。じゃあ、台所でいいや。ちょっとつきあえ」  アルが茶を滝れてくれた。ずいぶん濃い、真っ黒な茶になった。恐ろしく苦く、舌が焼けるほど熱く、とても美味しかった。  悲しみにひりひりしていた気持ちが、だいぶ潤《うるお》った。鎮《しず》まった。 「──朝目がさめたら、いつの間にか死んじまってたって?」  アルらしい、ぶっきらぼうな、からかうような言い方だった。冷徹《れいてつ》だが残酷《ざんこく》ではない。病《や》んだところを取り去るのに、おっかなびっくり少しずつ鋸引《のこび》きするのではなく、切れ味のよいナイフで思い切り一刀両断にするような、そんな優しさだった。 「まぁ、言っちゃなんだが、それはそれで、ケリーらしいかもしれない。思いついたら待ったなし、ひとの都合なんか聞きゃしなくてさ」 「そうですね」微笑《ほほえ》みのかたちだけ真似する。 「おかげで間にあわなかった」 「わたしも」 「いやそうじゃなくて。頼まれてたんだ。あんたのこと」  アルが言い、エマは、えっ、と顔をあげた。 「どこかいい働き口がないか探してみてくれ、って、言われていたんだ。自分で直接、逢って人柄を確かめたいからって。できればエマにもそこでそのひとでいいのかどうか意見を聞きたいしって言うんだが、メイドに面接されるんじゃあ、雇い主さんのほうだってたまんねぇよなぁ」  喪《も》の色は黒。メイドには馴染《なじ》みの色。亡骸を載せた霊枢車《れいきゅうしゃ》には、全身黒ずくめで黒いリボンを結んだ鞭《むち》を持った御者《ぎょしゃ》が乗る。馬たちも、黒馬でないものは毛を染められ、黒びろうどの衣装と燻銀《いぶしぎん》の飾りのついた馬具をまとわされている。  リトルメリルボーン122番地の玄関先には、その朝、闇のように黒いコートをまとった男たちが立った。肩帯をつけ喪章をまき、縮緬《ちりめん》のシルクハットをかぶった雇われ会葬者たちだ。左右一名ずつ、生きた門柱のようにすっくと立って、その職業に相応《ふさわ》しいことさら沈鬱《ちんうつ》な面持ちを通りすがりのひとびとに見せつけて、悲しみを助長するのであった。  少しの知人友人と教区関係者が葬列を作って進んだ。アルは列の中ほどを、エマは最後尾《さいこうび》を歩いた。  枢《ひつぎ》が墓穴に降ろされると、葬儀社の男が杖を折って投げ落とした。棺の蓋《ふた》がしめられる時、エマは銀貨を渡された。女主人の手に握らせて、その手を包み込んだまま、じっと、ケリーの顔を眺めた。  さようなら、奥さま。  手を組み、頭《こうべ》を垂《た》れ、こころにつぶやく。  長いこと、ありがとうございました。  奥さまはわたしの宝でした。救い主でした。  なのにわたしは、恩知らずなことばかりしてしまって。いろいろご迷惑や、ご心配をおかけしてばかりで。ほんとうにすみませんでした。どうか、安らかにお眠りくださいますように……。  誰かがつついてうながしたので、エマはしかたなく立ち上がり、墓を出た。  蓋が閉められる。ケリーの顔が見えなくなる。  エマはギュッと目を閉じたが、男たちが土を投げいれるドサッという音を耳から追い出すことはできなかった。 [#ここから3字下げ] 願わくは父よ、我らを罪の死より義の命によみがえらせ、 この世を去るとき、主イエスにありて安らかにいこうことを得させたまえ。 御子《みこ》・我らの救い主イエス=キリストによりてこいねがい奉《たてまつ》る。 願わくは世を去りし者の魂、主のあわれみによりて安らかにいこわんこと|を《※》[#※「日本聖公会 祈祷書」より。]。 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]アーメン  ──はじめてここに来た時、わたしは十二歳だった。 「あなたの部屋よ」  奥様がおっしゃってくださって、そうか、今日からは、ここに寝ていいんだ、と思った。  すごい幸運だ。  寝ていい場所があれは、もう、塒《ねぐら》をさがしてうろうろしたり、邪魔だあっちいけと野良犬のように追い払われたり、せっかく手にいれたものや見つけたものを誰にも盗《と》られないように隠したり、どんなに重たくても全部身につけて歩いたり、しなくてもいい。  今日この一日をいったいどうやって生き延びようか、恐い人たちからどうやって逃げようか、毎日毎日頭を悩ませなくていい。  道端に立ってなるべく哀《あわ》れそうな声をだして、通りすがりのご婦人がたや紳士がたの慈悲《じひ》を乞わなくていい。  居場所と、仕事が、できた。ご奉仕するべき相手が、お言いつけをきけばいい相手が、はっきり決まった。少なくともしばらくは、ここにいていい。ここに腰を落ち着けて、ちょっとどんなものか、様子をみてみよう。  思いがけない幸運に喜びながらも、わたしはまだ心を閉ざしていた。  長いこと、ほんとうに嬉しいことなんてひとつもなくて、心の底から安心できることなんてまずなくて、ちょっとでも油断すると誰かにしてやられてしまうんだってことが、身に沁《し》みていたから。  わたしを見つけて泥沼のような暮らしからひきあげてくださった奥さまという大恩人にも、最初は、感謝の気持ちなどなかった。  ただ、恐かっただけだ。  姿勢良くすっくと立った奥さまはとても大きくて、背が高くて、ご立派で。いかにも真面目で潔癖《けっぺき》そうな、厳《いか》めしくて禁欲的な清教徒らしい表情をなさっておいでだったから、  このひとにぶたれたらきっとすごく痛いだろうなと思った。  でも、奥さまは一度もぶったりしなかった。  ひとをぶったりするようなかたではないのだった。  そのことがわかって、やっとわかってきて、それで、少しずつじわぁっと嬉しくなった。  家事とか、勉強とか、やらなくてはならないことがたくさんあって、奥さまの期待に応えるのはたいへんだった。  けれど、  思っていたような、つらいことなんて何もなくて、  奥さまは、たしかに厳しいけれど、お優しい、良いかたで、  歳月はまたたく間にすぎて……  わたしの部屋には窓がある。  それは……少しコツがいるけれど……開けることができる窓だ。  好きな時に好きなだけ、開けたり閉めたりすることができる窓だ。  大きくいっぱいに開ければ外の空気をいれることもできたし、ほんの少しだけ隙間をつくっておいて、窓辺に佇《たたず》めば、町のあちこちから聞こえてくるさまざまな音に耳をすますこともできた。  窓ガラスに額《ひたい》や頬をおしつけて、明けていく町や暮れていく町の景色をずうっと眺めていることもできた。それは、そこにあるすべてのものと隔《へだ》たりながら繋がるような、不思議な気分だった。  ロンドンと内緒話をしているような。  秘密の親友どうしの打ち明け話をしているような。  そんな気分がするものだった。  ここが好きだった。  ここを好きになって、ここに馴染《なじ》んだ。  ここがわたしの巣、わたしの塒、わたしの居場所だった。  ここにいることができて、幸福だった。  とてもとても幸福だった。  最後の朝、わたしはいつものように目をさまし、制服一式を身につけて、白いキャップを髪に止める。  最後のつとめを果たすために、いま、この部屋を、出る。  最後のつとめ、それは掃除。借家を家主に明け渡すため、家じゅうをぴかぴかにすることだった。  ことに清潔にしなくてはならないのは厨房《キッチン》だ。食器棚など、いったん空《から》にして徹底的に片づけ、あちこちにブラシをかけてよく洗った。体重をかけて、ごしごしと。おもいきりこすった。  落ちないしみやちょっとした焼け焦げ、俎板《まないた》やナイフの磨り減り具合。  ひびがはいっても捨てられなかったティーカップ。  どんな小さなものにも思い出が宿り、ケリーのおもかげが宿っている。二人ですごした歳月がしみこんでいる。濡らして、こすって、どんなにけんめいに力任せに汚れを落としてみたところで、すべての痕跡を消すことなどできないのだった。  休憩を取りに自室まであがろうとして、途中で足がとまる。女主人が亡くなった寝室、最後の時をすごした寝台。もう一度あらためてベッドメイクしてある。ドア口に立って眺めた。  そこにもうケリーはいない。  何度見ても、いない。  戸枠にもたれてぼうっとしていると、足音がした。  振り返ると、アルが立っている。 「玄関開いてたぜ」 「あ……はい。もう……」 「あれきりずっとか? 物騒だろうに」  エマはかぶりを振った。盗まれて困るようなものはたいして残っていない。  多少とも金銭価値のあるようなものは、みな形見分けにあげてしまった。  家じゅうに漂う苛性《かせい》ソーダの匂いに、アルは鼻をクシュンとさせた。 「だいぶ片づいたな」 「まだもう少し」 「がんばりすぎて倒れないようにな」 「ありがとうございます。なにからなにまで」 「あんたは何かもらったのか?」 「服を少しと、こまかなものを」 「そうか」  アルはじっと寝台を眺めた。  いないケリーを捜すように。  彼の目にはまだ奥さまが見えるだろうか、とエマは思った。  見えるとしたら、どんなお姿でだろう。ご病気になられてからの、ではないといい。お元気で、打てば響くように言い返してらしたころの奥さまだったほうがいい。 「……大丈夫か?」  不意に、アルが訊ねた。 「え?」  祖父のような優しいまなざしに慰撫《いぶ》されたとたん、この数日のことが脳裏《のうり》にドッと蘇って、魂を揺さぶった。エマは手をギュッと握りしめてこらえた。 「だいぶ落ち着きました。あまり急だったから、よく覚えてないんですけれど……なんだか気が抜けたような。きっとまだよくわかってないんでしょうね」  アルはちょっと肩をそびやかした。 「まぁこれからだろうな。……また寄るよ」  じゃあ、と手をあげて立ち去りかけて、アルが振り返る。 「その服、もう着なくてもいいんじゃないか?」  エマは胸元に目を落とした。  メイドの制服。 「つい習慣で」 「長かったからな」  階段を降りるアルに続いてエマも降りる。玄関口まで見送る。 「なにかあったら、例のところにいるから」 「はい」  午後になった。  ランプの類《たぐい》をあつめて、火屋《ほや》を磨き、オイルを足した。  庭の物干し場のロープをはずし、シェッ|ド《※》[#※シェッド/物置小屋のこと。]に仕舞った。  家具を邪魔にならないように集め、古いシーツを埃よけにかぶせた。  なにかできることはもっとないかと見回して、飾り棚の上をきれいにしようと思いつく。家族写真の類はここからおろして集めておこう。こんどこの家に住まうひとにとっては、もう関係のない、いらないものばかりなのだから。  箱を用意して、写真立てをひとつずつ重ねた。  若き日のケリーと夫君の写真に目がとまる。この写真を見つけて、壊れてしまった首飾りをなおしたことがあった。奥さまを喜ばせることができて、あの時は少し嬉しかった。  ……この一枚は、頂いていこう。  幼き日のウィリアムの肖像が手に触れる。エマは作業の手をとめる。腰かけて眺める。  動揺のあまり、奥さまのことを、ジョーンズさんにお知らせしそこなってしまった。  ──そう、ここにあったのだ。  初めて逢った日、ウィリアムがこの写真を見て驚いたように言った。  ──今日まですっかり忘れてました。  ……ということは、とエマは考えた。ジョーンズさんのところにはこの写真がない。それなら、お返ししよう。  奥さまのことをお知らせしがてら……お手紙を書いて。  水を汲《く》んでは布をひたし、家じゅうを雑巾《ぞうきん》がけしてまわった。棚という棚、桟《さん》という桟から埃を除去してしまうと、気が抜けて、椅子にすわりこんだ。  食事をとらなければ、と思いついたのは、あたりが薄暗くなってきてからだ。  食料貯蔵庫からアーティチョークをひとつ、とりだした。ケリーが好きなので見かけてすぐに買っておいたのが、バタバタしてる問に忘れられて、少し古くなってしまった。  沸《わ》かしたたっぷりの湯に塩とレモンのしぼり汁をいれて、くつくつ煮はじめる。四十分ほどかけて煮あげ、蕾《つぼみ》をさかさまにして皿に載せ、水を切る。さめたら花弁ひとつひとつからたべられる部分をこそいでスープの実にする。最後に残った芯《しん》の部分に軽く焼き目をつける。  台所でひっそりと食事をしていると、匂いをかぎつけたのだろう、灰色猫が滑り込んできた。長い尾をたくみにくねらせて、にゃあと言う。 「ガランティーヌ」エマは眼を細めた。「また来たの」  スープにチーズを落とし、パンの残りをちぎってやった。  皿にのめりこむようにして夢中でたべる猫を、床にしゃがみこんで見物する。 「ここ、いなくなるからね。次からは、別のお家をさがしなさいね」  猫は顔をあげた。舌で口のまわりを舐めまわす。 「わかった?」  にゃあ。  素直な良いお返事だこと。エマはくすっと笑い、自分が笑っていることに、ふいにとてつもなく悲しくなる。 「もっと欲しいの?」  にゃあ。  甘えてくれるのが可愛《かわい》くて、自分の分をみなさらってやってしまった。どうせあまり食欲がない。  夜になった。  昼にもまして、静かだ。無人の家は、まるで死んだように静かだ。  蝋燭などをつけているのがもったいなので、はやく就寝した。覆いをはずした窓から、明るく月が見えた。屋根裏の、コツはいるが開けることのできる窓からは、月が近い。星が近い。空が近い。  この前、お月さまをじっくり見たのは……と、思い出す。  あれは、水晶宮《クリスタルパレス》。  エマは眼を閉じ、なにも感じるな、なにも考えるなと自分に言い聞かせた。  考えると怖くなるから。不安になるから。  ぴちょん。  どこかで水の音がする。  眠り込もうとする耳を驚かすように、また、  ぴちょん。  ああ、厨房の水道だ。栓があまくなっていて、うんと力をこめてしめないと、漏れてしまうのだった。  こんなに響いて聞こえるなんて。それだけ静かだということ。  ぴちょん。  エマは起き出していって水道の栓をしめた。階下はすきま風がひどく、寒かった。寝間着の上に肩掛けをはおってきていたが、ざわざわと底冷えがしてならない。このところ焜炉《こんろ》をほとんど使っていなかったから、家じゅうが冷えきっているのだった。  エマは居間に彷徨《さまよ》いこんだ。  どこといって、ふだんと変わったところはない。女主人ケリーの気配がまだ濃厚に漂っている。ケリーがいつも座っていた椅子。ケリーの好きだった窓。  からっぽになった炉棚の上を指でたどる。  エマはそっとため息をつき、床にしずんだ。  炉には燃えさしの石炭が残っていた。まだ充分に使えるので、捨ててしまうのが惜しくて片づけていなかったのだった。エマは火をつけた。  炎と、光と、あたたかさが灯《とも》った。  はじめてこの家にきた頃、ちっとも上手につけることのできなかった暖炉だったが、いまはもう、ほとんどなにも考えることなく、自動機械のように、巧みに火をおこすことができてしまうのだった。  炎は躍《おど》り、やんちゃざかりの仔犬のようにせわしなく絶え間なく揺れ動いて、はしゃぎまわった。黄色い灯と、燃える匂い。掌《てのひら》に頬に感じる熱。安全で快適な、守られていると感じさせてくれる火。保証されているぬくもり。  ──窓の中には明るい光や温かな暖炉や美味《おい》しそうな食事があり、幸福そうな家族がいるのだ──  ここは家だった。  わたしが居ることを許された。�窓の中�だった。  ──もう、そうではない。  エマは肩掛けの中にうずくまり、膝《ひざ》を抱いて、泣いた。  この時はじめて自分が独りになったのだとわかったのだった。  猫はその家の中層にぼうっと灯がともるのをみていた。暖炉をしめす黄色いあかりだ。  しばらく見守り、見届けて、猫なりになにがしか納得すると、塀《へい》を飛び下りた。  体重を感じさせない軽やかな身のこなしで。  それから野生の猫の第六感の示す方角に歩いていった。まっすぐに。独りで。  やがて灯が見えた。おいでおいでといっている。猫の勘《かん》には万にひとつのはずれもない。灰色猫は明るい窓の下にいって木戸の張り板を少しばかり引っ掻き、うにゃー、うにゃー、と、特製の声をだしてみた。  一分とたたないうちに戸口があけられ親切そうな顔つきのメイドがしゃがみこんで、まぁ、かわいい猫だこと、と言う。 「なあに、ごはん欲しいの?」  うにゃー。  この猫はガランティーヌとはもう呼ばれない。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 9 " At a dinner party "  第九話 晩餐会のエレノア [#ここで字下げ終わり] 「神々の部屋」と愛称されているアーバスノット男爵家《だんししゃくけ》の客間《サルーン》は、煌《きらめ》く青灰色を基調とした、大きく華麗《かれい》な部屋である。優雅な浮き彫り模様に織り上げた絹緞子《きぬどんす》の壁紙も、壁際《かべぎわ》にずらりと並べられたたくさんの肘掛《ひじか》け椅子《いす》(ひとり用もあれば三人掛けもある)の張り布も、みな高貴に冷たい光沢《こうたく》を持つパウダー・ブルーだ。巨大なシャンデリアのさがった高天井も、白漆喰《しろしっくい》の縁取《ふちど》りと薄青の平地がウェッジウッドの陶器を思わせる装飾《そうしょく》にまんべんなく覆《おお》われている。おかげで部屋じゅうの空気が、おぼろに青い。  これに対して、青い壁のあちこちを飾るほとんど等身大の人物像の数々や風景画、歴史の場面を描いた絵画《かいが》などと、床の中央に置かれたどっしりした絨毯《じゅうたん》が含む主な色合いは、暗い茶のグラデーションとくすんだ金だ。ちなみに柱や把手《とって》や椅子の脚といった部分の意匠《デザイン》を統一するのは、メアリ・シェリ|ー《※》[#※メアリ・シェリー/イギリスの小説家。代表作に『フランケンシュタイン』(1818年)がある。]以降隆盛したいわゆる怪奇趣味《グロテスク》の洗礼を受ける以前の、真のグロッタテスカ、つまり、リズミカルに連《つら》なる唐草に、人物、生き物、果実や草花、武具などの日用雑貨をあしらった古代ローマ風の装飾文様様式である。  繊細《せんさい》で美しい薄青と金の巨大空間は、そこに集《つど》う様々な客人たちをロマンティックな物語の登場人物ででもあるかのような気分にさせる。優雅さと流行とを競わずにはおれない婦人たちにとっては、おのがセンスと才気そしてもちろん美貌《びぼう》とを武器とした華麗な対決の舞台となるのだった。  いままた一台の馬車がおもてに到着し、招待客のカップルを降ろしたところだ。扉をあける係が恭《うやうや》しく会釈《えしゃく》をしてお通しし、フットマンが紳士のコートを、メイドが淑女のケープをお預かりする。その間に馬の世話係が御者《ぎょしゃ》に声をかけ、それぞれの馬車を駐《と》めるべき場を指定し、誘導する。 「ヘンリー・メルヴィルご夫妻、お着きにございます」  部屋の入り口で係が呼ばわれば、客間に既に集まっていた男女は談笑を止めて、それぞれ顔を向けたり、立ち上がったりした。交わされる、歓迎のことば、無沙汰《ぶさた》を詫《わ》びることば、答えることば、この場には不在の家族や親族について、近況を訊ねることば。しゃらしゃらいう衣擦《きぬず》れの音を伴《ともな》ってひとしきり形式ばった挨拶《あいさつ》が済むと、客間はまたもとの静かな喧騒《けんそう》に、凪《なぎ》の海ほどのゆったりとした騒めきに戻っていった。  よほどの年配でもないかぎり男性はみなおのれの二本の脚の上に立っており、女性たちはドレスの裾をもっとも美しく見えるかたちに巧みに流した姿勢で着座している。紳士たちの服装は、いずれもよく似た黒のテイルコートに白いウエストコート、小さなボウタイに純白の手袋……と、あくまで周囲から突出しないことを第一条件にしている。婦人たちの絹のドレスも舞踏会や夜会向きのそれに比べればずいぶんとシンプルで、たとえ飾りがあるとしても、ブラッセ|ル《※1》[#※1ブラッセル/網目にアップリケなどを飾ったもの。]やメクリ|ン《※2》[#※2メクリン/花などの飾りを編み込んだもの。]、マルティー|ズ《※3》[#※3マルティーズ/幾何学模様。]などの控《ひか》えめなレースのごく上品なもののみ。ただし服地はこの上もなく上等な第一級の厚手の絹織物生地であり、それぞれに個性的でいかにも美しい色合いである。しかし、年配の婦人たちは、招かれた場をよく心得て(また何度も招かれたことがあったので、へたに強烈な色をぶつけるよりもそのほうが優美に見えることを知っていたために)、青、銀白色、ほんのり緑がかった白などの、一見すると地味で目立たぬ色を身につけているのであった。  ただひとり、突出している存在があって、それはずば抜けて若い乙女である。彼女は、他の客たちやこの場の雰囲気にまだ少し戸惑《とまど》っていた。気後《きおく》れしているわけではなく、互いに長年の知り合いであるらしいひとびとの問には、うまく溶け込む自信がないし、また、いきなり割ってはいるのはあまりに不作法なふるまいになるだろうと思うので、いちおう遠慮しているのである。  壁にもたれて行き交うひとびとを眺めるさまは、いわば、好奇心まんまんの仔猫が、長い尾を知らずしらずくねらせ、飛び出していきたくてうずうずしている自分を焦《じ》らすように低くうずくまりながら、瞳ばかりをどうしても輝かせずにおかない様にそっくりであった。  桃色がかったピンクの編子《しゅす》にたくさんの薔薇《ばら》を飾った彼女のドレスは愛らしく初々《ういうい》しく、社交界に足を踏み入れたばかりであることを如実《にょじつ》に表している。技巧的に高々と結い上げた髪にも薔薇、喉元と耳には真珠に小粒のルビーをあしらって、彼女の生まれ育ちが充分に裕福であることを問わず語りに示している。  純真無垢《じゅんしんむく》な青い瞳を凛《りん》と大きく見開いている彼女こそ、この世の悲哀や残酷をいまだ体験したことのない夢見る乙女、子爵家の美貌の姫、エレノア・キャンベル嬢である。  彼女はこのような本格的な社交の場に居合わせることができたことが嬉しくてならない。かすかに頬を紅潮させて、ドレスの中で爪立《つまだ》って、仔鹿のような瞳を右に左に彷復《さまよ》わせた。  あそこにいらっしゃるあの紳士は、確か、さっき、ダーリントン伯爵と呼ばれていたかただわ。伯爵さまなのね! ひとことでもお話しできるかしら。  あちらの奥さまのあのヘアスタイル、素敵! 首飾りと耳飾りをとっても引き立ててるし、お顔だちに、すごく良く似合ってるわ。どこをどうするとああなるのかしら?なるべく覚えていって、アニーに相談してみよう。わたしも今度、同じようにしてもらえるかどうか。  何を見ても聞いてもわくわくどきどき、心がはずんでしょうがない。ここで今夜交わされる会話や起こるできごとは何ひとつ逃してなるものかと、けなげに決意しているのであった。  エレノア嬢の右手側では、ジョーンズ家のウィリアムが、やはり所在なげに立っていた。両手を隠すように背中にまわして、どこでもないどこかを眺めてぼうっとしている。こちらは何も始まらないうちからすでに辟易《へきえき》し、退屈している。苛立《いらだ》つというよりはむしろ虚脱《きょだつ》して、こんなところに居なくてすむのならいいのに、と思っていた。  失敗したなぁ。  体調が悪いとかなんとか適当なことをいって、土壇場《どたんば》でごまかしてしまおうと思っていたのに。  父さんも狡《ずる》い。エレノアさんをエスコートすることになっているから宜《よろ》しく頼む、なんて、突然言うんだから。  いつの間にそういう話になっていたのか、例によって、ただのひとことも断りなしの事後承諾《じごしょうだく》なんだから。参ってしまう。  かといって……  と、横目で、隣のエレノアを眺め、  このひとには罪はないからなぁ。僕のせいでがっかりさせてしまったりしたら申し訳ないもの。  ふう。  ウィリアムのついたため息を、エレノアも聞きとがめた。  照れていらっしゃるのかしら。  と、エレノアは思った。  なんだか苦しそうなお顔。それとも、なにか、心配ごとでもおありなのかしら? 「あの……」  勇気をだして、言ってみた。 「わたくし、よろしかったのかしら」 「は?」 「ミスター・ジョーンズが、今日のこの席に同伴する女性がおられなくてウィリアムさまが困ってらっしゃるって。それで、わたくしに、もし良かったらどうだろう、って、言ってくださったので」  エレノアはその時の気持ちを思い出して、花のように笑った。 「わたくし、ほんとうにほんとうに嬉しかったんです! ……こちらの晩餐会には、是非《ぜひ》一度来てみたいって、ずっと思っていたものですから。……姉のモニカが以前にご招待いただいたことがあって、とても素敵だったっていう話を、何度も何度も聞かされて、とても憧れていたものですから。……つい、はい、わたくしで良ければ! って、申し上げてしまったんですけど。……ちょっと、ずうずうしかったでしょうか」 「あ、……いや!」  ウィリアムはあわてて、やや崩れていた姿勢をぴしっと立て直した。 「ずうずうしいなんてそんな事はありません。……いらしていただいて良かった。助かりました」 「……そうですか。良かった!」  エレノアが無邪気に頬をゆるめたところへ、支度がととのったと案内があり、客間の一行はぞろぞろと食堂へ大階段を移動していくことになった。 「良かった。ほんとに良かったです」  ウィリアムの曲げた肘の内側に預けた右手の指先にキュッと力をこめて、エレノアは言った。 「ご機嫌悪くていらっしゃるのかと思いました」 「僕がですか」 「ええ。だって難しそうな顔をして、ときどき空中を睨んでらっしゃったでしょう?何かありましたの? ひょっとして歯でも痛むとか。せっかくの御馳走《ごちそう》なのに困りましたね」 「…………」  ウィリアムが返事もせず、にこりともしてくれないばかりか、またどこか遠くに視線を投げたので、エレノアはびっくりして、そちらを追い掛けて眺めてみた。  父のほうのジョーンズが、長女のグレイスをエスコートして先を歩いている。ウィリアムはその背をじっと見ているようだ。  もしや、ウィリアムさん、おとうさまとケンカでもなさったのかしら。  エレノアはたちまちしゅんとしてしまった。 「ごめんなさい」うなだれる。 「ウィリアムさまは、わたくしのこと、お嫌いでしょうか──」 「いや」ウィリアムはあわてて意識をもどした。「そんなことないです。誤解ですよ」  ウィリアムは、肘にかかっていたエレノアの指先に手をのせた。  そこにそのままそうして縋《すが》っていたりなどして良いものなのかどうか、ほんとうは腕を貸すのはお嫌なのではないか。そんなひとに手をあずけて良いものか──。拒絶されるのはいやだった。エレノアのためらう気持ちが、彼女の手をひっこませかけていた。ウィリアムがほんの少しでもからだを引いてしまったら、それだけですぐに落ちてしまうような、危なっかしげに微《かす》かにひっかかっているだけの状態になっていた。その手を、彼は、きちんと据えなおし、上からぽんぽんと軽く叩くようにしたのである。  そこにそうしておいておいてくださっていいんですよ! と慰め励ますように。  僕が、あなたをちゃんとエスコートしますから、と誓《ちか》うように。  良かった!  ホッとして、エレノアの気持ちは、また上向いた。  手に、きゅっ、と力をこめる。 「ウィリアムさまは晩餐会によくお出でになられるんですか」 「最近はあまり」 「わたしはこれで三回めです」エレノアは言った。「でも、今日のこれが一番です。立派で、本格的で」 「最初の頃は慣れなくていろいろたいへんでしょう。こまかな決まり事が多いから」 「あら平気ですわ。そのこまかなところが面白いんですわ」 「ほお」 「早く社交界デビューしたくて、もう何年も前から心待ちにしていたんですもの! なにもかも素敵。時には、まだ少しぎくしゃくすることもありますけれど……少しずつ覚えて、うまくできるようになったら嬉しくて。グレイスさんにもいろいろ教わりましたわ」 「ああ、そうか。妹のグレイスとお知り合いなんでしたっけ」 「お知り合い、だなんて」エレノアはちょっぴり憤慨《ふんがい》した。「そんな、堅苦《かたくる》しいことをおっしゃらないでください。仲良しのおともだちと言ってかまわないと思いますわ。グレイスさんのほうからもそう思っていただけているんじゃないかしら」 「ああ、そうなんですか」  大食堂《ステート・ダイニングルーム》の長卓には、フランス風の正式の晩餐のための準備が整っている。銀のカトラリーがスープ匙《さじ》までいれて四組、ワイングラスが大小四個あることから、少なくとも主料理をふくめて四通りのコース料理が出ることがわかる。  室内楽団がメヌエットを奏《かな》でる中、今宵《こよい》の客たちがみな一組ずつ案内され、男女交互になるように着席していく。  ウィリアムとエレノアは、隣りあって座を占めた。  主催者であるフラボア・アーバスノット夫人の挨拶があり、みなの健康を祈って、ワイングラスを掲《かか》げての乾杯があった。  一品めは海ガメのスープだ。  西インド諸島から活《い》きたまま輸入するカメの料理は世の食通たちの垂涎《すいぜん》の的《まと》である。晩餐にカメの料理を供し、その証拠として大きな甲羅《こうら》を食卓の中心に据えて盛り皿代わりとするのは、富と名声の証《あかし》である。正式なディナーともなれば、欠かすことはできない。  スープが金の縁取りの陶器で運ばれてくると、エレノアは、しげしげとのぞきこんだ。よく漉《こ》されて金色に澄みわたった熱いコンソメ・スープに、ゼラチン質の肉がこまかな賽《さい》の目《め》になって沈んでいる。 「海ガメって、料理されても水の中なんですね」  ひと匙すくう。銀器を顔に近づけるなにげない所作《しょさ》がさすがに美しい。ふくむと、すぐに、おや、というように眉《まゆ》をあげる。 「おいしい」  ウィリアムも口をつけてみる。 「ほんとだ」思わず感想が漏《も》れた。「とてもおいしいですね」  長卓のあちこちで同様の賛辞や感動をしめす稔《うな》り声《ごえ》などがささやかれている。 「ね!」エレノアは微笑《ほほえ》んだ。「あまり美味しくて、わたしお話しするの忘れてしまいそう。マナー違反ですわね。ごめんなさい」 「気にしないでください。僕もですから」  正餐は進む。  二品目はロブスターと舌ビラメのオレンジソース、豚脂《ラード》で風味をつけたヤマウズラ、鹿肉やハトなどの猟鳥獣《ゲイムミート》のパイ、小羊の背肉、ハムの煮込み、マスのムニエル、海老の|詰め揚げ《リッソウル》など。  食間のデザートとして、アプリコット・パイ、梨のヴォローヴァ|ン《※1》[#※1ヴォローヴァン/大型のフルーツ・パイ。]、カスタード、砂糖煮、プラムプディングやゼリーなどが客たちの贅沢《ぜいたく》な舌を洗ったあと、いよいよ本日の主料理となった。  鴨のサル|ミ《※2》[#※2サルミ/野鳥料理の一種。野鳥の肉をワインで煮込んだもの。]、羊のロースト、牛舌《ぎゅうたん》の煮込み、カレー風味のロブスター、鶏のシュプレー|ム《※3》[#※3シュプレーム/鶏のだしを生クリームで仕上げたソース。また、それを使った鶏肉料理。]のトリュフ添えなどなどが華やかにテーブルを賑《にぎ》わす。  この後、さらにコースのシメの三品めとして、ウズラ、海老、ガチョウの雛《ひな》、ウサギなどをいろいろに料理したものと共に、猟好きなアーバスノット家当主ジョージに相応《ふさわ》しく、タシギ、ヤマシギ、チドリ、ライチョウ、コガモにヒドリガモなどの猟鳥のローストや肉パイが供せられて、この盛大な宴《うたげ》を締めくくった。  とはいえ、ケーキやクリームや果物、シャーベットなどの多彩で本格的なデザートが、最後の最後に控えているのであった。    とうぜん、すべての料理が汚れものを出す。次の料理を運び入れるためには、前の食器を片づけ、ぴかぴかの器をセットしなければならない。  招待客たちが美食に舌鼓をうっている部屋の隣の配膳室では、フットマンやメイドがけんめいな作業を続けていた。彼らはまた、両手になにかを捧げてはひっきりなしに廊下を往復し、擦れ違った。たとえ急いでいてもあまりそれを表情や態度に表さない訓練をうけているが、うっすらとかいてしまう汗ばかりはどうしようもない。  目を地下厨房に転ずれば、情勢はより緊迫し、沸騰し、ほとんど戦場の様相を呈しているのだった。 「44番、43番、あがりました!」 「ソースはできてる?」 「ベティ! ジェイン! つけあわせは終わった?」 「終わりました」 「じゃあゼリーソースにかかってちょうだい!」 「仕上げおねがい」 「これ崩《くず》れやすいから気をつけて」  料理人《コック》とキッチンメイドたちは、熱気と蒸気と料理の芳香《ほうこう》と目がまわるような忙しさの中で、なんとか正気を保とうと必死に集中力を発揮していた。 「鴨のローストは?」料理人のミセス・シュミットが振り向きざまに叫ぶと、 「もうすぐです」  既にオーヴン前になかば屈《かが》んで待機していたファースト・キッチンメイドが冷静に答える。 「……出ます。ルース、お皿!」 「はいっ!」  オーヴンが開き、熱々の料理をのせた重たい鉄のトレイがグイとばかりに引きだされる。 「どいてどいて!」  調理台に置き、料理に焼き串をさし、抜いて唇にあててみる。中まできちんと火がとおっているかどうか、温度で確認するのだ。 「完壁。さすが私。ルース、切り分けて飾って」 「はい!」 「こちらプディングできました、持ってってください」 「落としたら馘首《くび》よ〜!」  その頃大食堂では、フットマンたちが高価なグラスを丁寧《ていねい》に濯《すす》ぎ、パリッとアイロンをあてたリネンで拭《ふ》き、客のリクエスト通りの酒を注《つ》いでは、銀盆に載せて運んでいくのだった。  歓談のざわめきは潮騒《しおさい》に似て、時折高まっては静まり、さわさわと引いて美しい模様を残し、また、ごくたまにひときわ大きな波をなしてはドッと砕けた。  エレノアは、ウィリアムに、お酒はあまり飲んだことがないのでまだちょっと怖い、と話した。 「最初は誰でも弱いのだと思いますよ」  ウィリアムはにこやかにうなずきながら答えた。  この、初々しく可憐《かれん》なお嬢さんの相手をするのが、単なる義務あるいはひまつぶしよりはたのしみに近いものになってきていた。他のこの夜招かれたお歴々と会話をする時ほどには神経をつかわないですんだし、エレノアはグレイスやヴィヴィアンに比べれば、だんぜん柔らかく、優しく、ようするに手ごわくない、なんでもすなおに話しやすい相手であった。 「僕も以前、大失敗をしたことがあります。その時、席の周囲におられたのがたまたまお酒がお好きなかたがたばかりだったので……勧められるまま、自分の酒量を考えずに、つい、たくさん飲んでしまって……ポートワイン、ホッ|ク《※1》[#※1ホック/ドイツのラインワインの愛称。]、クラレッ|ト《※2》[#※2クラレット/フランスのボルドー産赤ワイン。]、シェリー、マディラ|酒《※3》[#※3マディラ酒/ブランデーで酒精を強くしたポルトガルワイン。モロッコ沖にあるマディラ島が産地。]もあったかな」  ははは、と苦笑いをする。 「よく覚えていませんが」 「すごい。それで、どうなりました?」 「ご婦人の退席の時になりました。僕は、隣のかたのドレスの裾《すそ》を思い切り踏んづけていたんです。知らぬまに。ところが……なんというか……そのかたが、とても安定の良いかただったので、グイと引かれた拍子に、弾き飛ばされて転んでしまったのは僕のほう、おまけに肘をぶつけて全治二週間」 「まぁ」  エレノアはクスクス笑いを手で隠した。 「そのような思い出がおありだから、晩餐会にあまりお出になられないんですのね」 「いや、ちがいます。単にめんどくさいからです」 「わたしはまだ一度も失敗したことありませんわ!」 「それは偉い」    まぁ、驚いた。  グレイスは斜め向かいにあたる席から兄ウィリアムの様子を眺めて、目をぱちくりさせた。  なんてにこやかなの。本気で笑ってる。  晩餐会なんて出たくないって出発間際まで言っていたくせに、楽しそうじゃない。意外と、話がはずんでいるじゃないの。  |あの子《エレノア》、お兄さまとは、相性がいいのね。 「今日もおかあさまったら、家を出るまで心配していたんです」  少し酔ったエレノアは饒舌《じょうぜつ》だ。声はわずかに高くなり、早口になり、時おり呂律《ろれつ》がかすかにあやしくなるが、そんな様子も可愛らしい。 「家の伝統と格式に相応しいふるまいをなさいって。ふた言目には、伝統、伝統って。そんなの、わかってるのに。わたし大丈夫なのに……ひくっ!」 「……水を!」  彼女にさしあげて、とさりげなくフットマンに言いつけて、ウィリアムは微笑んだ。 「……伝統は……たしかに大切だと思いますよ」  もらったミネラル水を救われた気持ちでごくごく飲んで、しゃっくりの発作をはじまるかはじまらないかのうちに素早く押さえ込むことができて、エレノアはほおっ、とため息をつく。 「伝統になるぐらい長い間受け継がれてきたことには、それだけ長持ちした理由があり、大切にされる理由があるのでしょう。なんでもかんでもやたら頻繁《ひんぱん》に取り替えればいいというものではない。ただ……」 「……ただ?」 「守ることそのものが目的化してしまった伝統はどうなんでしょうか」 「どうなんでしょう……?」  エレノアは小首をかしげる。 「ずっと続いてきたことだから、これからも続ける、永遠に変えない、というのでは進歩がありません。改革の余地はないことになる。それは固執です」 「こしつ?」  エレノアは顔をしかめた。 「いや、あなたのお母上を批判しているのではないのです。キャンベル家にはたしかに守るべき伝統があるにちがいないのですし」 「…………」 「女性には淑《しと》やかで和やかでいていただきたいですから……いまのはあくまで僕のことです。……余計なことを言ってすみません。ただ、僕は……もともとあまり男らしいほうではないですが、時には、多少の現状打破を試みたくもなるんですよ」  当惑顔の貴族令嬢に、ウィリアムは、安心させるように笑ってみせた。 「あなたはなにも心配なさることなんかありません」  なにも心配ない。  それは、エレノアには、なにより嬉しいことだった。  なにも悪いところはない、ぜんぶこのままでいい、というのは、最高のほめ言葉ではないか。  嬉しい。  ウィリアムさまって優しい。 「……そうですか?」  嬉しいから、もう一度聞きたい。  確認したい。 「わたくし、なにも、心配すること、ないですか?」 「ええ」ウィリアムは真顔で請《う》け合《あ》った。「そうですよ」  嬉しい……!  エレノアは思わず笑顔になる。  なんら計算も裏表もない、赤ん坊のような晴れやかな笑顔だ。  ウィリアムさまといると、楽しい、と彼女は思う。いつも気づかってもらって優しくしてもらって過ごせる。  ウィリアムさまは、口やかましくないし、怖くない。乱暴でもない。さっきみたいにすこしばかり不機嫌そうな時でも、あたりじゅうにその不機嫌をまき散らしたりなさらないのが、いい。  女や弱いものを踏みつけになさらない。  ……むしろ大切にしてくれる。  幸せな気持ちにしてくださる。  ウィリアムさま、もっと褒《ほ》めて。  もっとわたしを好きになって。  ふいに彼にじっと見つめられていることが恥ずかしくなった。エレノアは敢然《かんぜん》とナイフとフォークを構えなおすと、目の前でそっと冷めはじめていた料理をせっせと食べ、喉をつまらせそうになって、あわててグラスのワインをあおった。 「……っ!」  思っていたよりアルコール度数が高い。 「だいじょうぶですか?」 「平気ですわ、これくらい」  その頃地下厨房では掃討《そうとう》作戦の最後の幕を引きにかかっていた。  膨大なメニュー物資の最後である食後のデザートのうちの幾品かが、いよいよしあげの飾りつけにかかり、いままさに厨房基地から運びだされようとしていたからだ。  カスタードを詰めたタルト型にメレンゲを落とし焼き目をつけ、季節の果物を各種盛り、溶かした飴《あめ》を流しこみ、ピスタチオ・ナッツを半分にして美しい緑色をあざやかに見せたのをてっぺんに飾りつけて、ついに完成である。  同じものが既に三十個ばかり、銀盆に並んで待っている。 「はいあがり、これで最後ね!」 「いきます!」 「落とさないでよ〜!」  タルト満載の銀盆を掲げ、誇りにシャンと背中をたてたメイドが足早にでていくと、戦い抜いた厨房に一瞬、ほっ、と安堵《あんど》の空気が流れた。 「やれやれ、とりあえず、一段落」 「どう、お客さまは?」 「絶賛です。『良いコックをお持ちのようでうらやましい』とか『もしこちらをお辞めになられる時にはぜひ、うちに』とか、台詞《せりふ》が飛び交っているのを小耳にしました」 「それに奥さまがまた『光栄ですが、うちの料理人たちはわたくしの宝です、手放すつもりはありませんの』って、例によって例のごとく、にっこりお答えでした」 「やったぁ」 「うれしい」 「お手当てでるかしら?」 「当然です」ファースト・キッチンメイドがタオルで手を拭いながら、フフン、と唇を右側だけあげて笑う。「おっと、お手当てがでるかどうかではなく。奥さまのお答えのことですが」 「こらこら、まだあるよ、終わってないよ!」褒められた当の料理人が、ぱんぱんと手をたたいてみなの注意を引く。「片づけがぜんぶ終わるまでは気を抜かないのよ。 もしも大事なお皿を割ったりしたら、荷物をまとめてもらいますからね!」 「ひっく!」  頓狂《とんきょう》な音を発してしまいそうになった口をあわてて押さえるエレノア。 「だいじょうぶですか」 「平気れすわ」  ウィリアムがまた目で合図してくれたので、また水をもらえた。気働きのいいフットマンが、何があってもすぐに対応できるよう、エレノアの背後に影のようにはりついて控えるのがわかった。ウィリアムが感謝の気持ちを目で伝えると、フットマンはすまし顔でかすかにうなずいてみせた。 「いやはや、それにしても」  食卓の対岸に座を占めたのはラングレー侯。  ウィリアムは知らなかったが、侯はあのロバートのハルフォード家と遠縁にあたり親交がある。侯がたまさかハルフォード邸に滞在していたおり、まだ幼さの残る少年だった頃のウィリアムが、乗馬を習いに通ってきていたことがあったのであった。  めったにひとに懐《なつ》かぬので馬房でも持て余されていた暴れ馬の鞍上《あんじょう》にまで、果敢《かかん》にあがる少年を、侯は覚えていた。ごく幼少の頃から専門教師について習い覚え、もうすっかり上達して教師役になってしまった友人……ロバート……の、いかにも貴族らしい優雅な騎乗に比べると、どこかまだ手さぐりの試行錯誤《しこうさくご》であったし、時には派手に落馬もしたが、そのことを苦にもせず、卑屈《ひくつ》にならず、簡単には諦めず、むしろ、どんなことにでも楽しげに挑戦するさまがいたく凛々しく若武者らしかったので、好ましく思ったのだった。  練習の終わり頃には、むろん長年の先達《せんだつ》であるロバートほどではないものの、ウィリアムも一応はそれなりにさまになって駆け足などもできるようになった。生まれつき筋が良いのが見てとれた。なにより、馬好き狩猟好きの侯の目にとまったのは、気位《きぐらい》も値段も高い名家の名だたる馬たちが、ごく初心者のウィリアムをどうも憎からず思っているらしいことであった。  馬はひとを見る。人間たちが爵位や家柄に目をくらまされて見そこなう部分を。駄馬《だば》にも侮《あなど》られる士があるかと思えば、王の馬にも尊重《リスペクト》されずにおかぬ厩務員《グルーム》もあるのである。  気難しい名家の馬たちを人柄で乗りこなしてしまったあの日の少年が、こんな若者に成長したか!  侯はこれを興深《おもむき》く面白い縁のように感じたので、つい、割り込んで茶々をいれたのである。 「若きおふたりが仲睦《なかむつ》まじうしておられるのを見るは、実に微笑ましく眼福なことにございますな。私などにはもうその記憶すら定かではありませんが……『水晶も六月の庭も、青年の日の恋を前にしてはただ色槌《いろあ》せるのみ』とやら……重畳《ちょうじょう》、重畳」 「……いや、その」ウィリアムはまごまごした。「そうではなくて……」 「そうではないのですよ」  驚いたことに、父リチャードが口をはさんだ。 「このふたりは先日知り合ったばかりでして。本日はエレノア嬢に、この私めがたってお願いをして、いらしていただいたのです。……もっとも」  リチャード・ジョーンズは侯の耳に口をよせ、この際共犯者になってやってくださいと言わんばかりの言いかたをした。 「むろん、御前のおっしゃるようになって欲しいと思わばこそ、なわけですが」 「ははぁ、なるほど。では中国の故事にならって『薔薇は半開の中に趣を見ん』といったところですか」 「いやむしろ『花を与えるのは自然、編んで花輪にするのは芸術』と」 「ゲーテですか。確かに、ただ生まれながらにしてそのままでも充分に美しい女性を、さらに輝かせるのは彼女を愛するもの次第でしょうが」  すると向こうに座っていた他家の夫人が朗論《ろうしょう》した。 「『まだ間に合ううちに、薔薇の蕾を摘《つ》むがいい──|』《※》[#※「時を惜しめと、乙女たちに告ぐ』ロバート・ヘリック『ヘスペリデス』より]」  悪戯《いたずら》っぼく瞳を輝かせながら、ウィリアムとエレノアを交互に見る。 「『昔から時間は矢のように飛んでゆくものなのだから……花の盛りを逃してしまえば、永久に待ちぼうけを食うだけなのだから』」  ウィリアムは、ふと、頸筋《くびすじ》に熱い視線を感じた。エレノアがキュッと唇を噛《か》みしめ、頸も耳も真っ赤にして、なんともいえぬ目つきで自分を見つめているのだった。  ウィリアムの心臓は、謎の民の戦いのドラムのように不穏《ふおん》な鳴りかたをはじめたが、 「みなさま! 別室の用意ができたようです!」  フラボア・アーバスノット夫人のよく通る声が、大食堂全体に静寂と注目をもたらした。 「そろそろ私たちはさがらせていただきます。たばこをお吸いになられたくてうずうずなさっておられたかたもおられましょう。あとは、殿方どうし、どうぞごゆっくり」  ウィリアムは誰にもわからぬようにそっと息をついた。正式の晩餐の場合、ご婦人がたのみ先に退席することになっていることをこれほど有難《ありがた》いと思ったことはなかった。  淑女がたの社交の場は、夫人自慢のサロンにうつった。変形八角のこの小部屋はもとは、高貴な館主夫人が大掛かりな衣装を身にまとうべく、何人もの侍女に寄ってたかって助けてもらうために作られた部屋であった。ゆえに、衣装をくっきり見せるべく、天井には明かり取りの窓が切られ、わざと地味にした青緑の唐草模様の壁紙の合間には、いくつもの鏡がめぐらされている。右も左も背中側もしっかり視認するためのこの鏡が、広からぬ部屋にゆったりした余裕をあたえてもいた。  壁のくぼみには、華奢《きゃしゃ》なガラスや陶器の小物が可愛らしく飾られている。もとは、あるいは館主夫人の宝石コレクションが並べられて、選ばれるのを待っていたのかもしれない。  それぞれの|介添え《エスコート》役から離れて集った婦人たちは、あちこちに置かれた座り心地の良い椅子に散らばった。男性の目がなくなったので、みな、少しばかりほっと寛《くつろ》いで、息を抜いたかっこうである。 「コーヒー、紅茶?」 「紅茶をください」  勝手知ったるグレイスが、わきに控える侍女の銀盆から、エレノアにカップを取ってやった。  ありがとう、と受け取って、エレノアは恥ずかしそうに手を胃においた。 「でも、お茶も、はいるかしら。もうお腹いっぱい……コルセット、はずせたらいいのに」 「そうね。みんなそうよきっと」  そうよ、あたりまえよ、と女たちはころころ笑う。  さっそく、最近流行のドレスのラインについて……もっとも美しく見えてそれでいて着ていて楽なのはどれなのか、意見が交《か》わされた。年配の婦人たちは娘たちの若さを羨《うらや》み、いまどきの自由を羨み、自分たちの時代はどんなに厄介《やっかい》でつまらなかったかという、お得意の話題に没頭するのだった。 「……ねぇ、グレイスさん」  合間を見て、エレノアは片脇の年かさの友人に甘えるように訊ねてみた。 「今度またおうちにお邪魔してもいいかしら」 「もちろんよ」グレイスは優しく微笑んだ。「ラウンド・ゲー|ム《※1》[#※1ラウンド・ゲーム/カードやボードを使って遊ぶテーブルゲームの総称。]でもして遊びましょう」 「わたしピッ|ク《※2》[#※2ピック/フランス伝来のカードゲーム。]だったら強いのよ!」 「そうなの? じゃあ、わたし負けちゃいそう」  はしゃいでいたかと思うと、急に、エレノアは黙り込んだ。  どうしたのかしら? と覗き込むグレイスに、打って変わって恥ずかしそうな声でもごもご言う。 「ウィリアムさまはいつもおうちにいらっしゃるのかしら」 「そうね」グレイスは考えながら言った。「いることが多いけど」 「ふうん」エレノアは一瞬納得したように黙ったが、まだ言い足りないと思ったらしく、なにげなさそうに、早口に言う。「ウィリアムさまもゲームなんてなさるのかしら。お願いしてみようかな」 「……どうかしら」  さぁさぁ!  とグレイスは思った。  これはどうやら本気のようよ。蕾は開きかけている。  兄さまったら、わかっているのかしら? 「兄さまって、あんな感じでしょう。てんで社交的じゃなくて、気がきかないんですもの。ゲームなんて、きっとへたくそよ。お相手をしても、楽しくないかも」 「そんなことないわ!」  エレノアの大声に、小部屋じゅうの婦人たちが振り向いた。 「お話とっても楽しいもの!」  グレイスは、ややたじたじとなりながらも、婦人たちがみんな微笑ましげに顔を戻すのを肌で感じていた。エレノアの幼さを、みんな容認している。ご自身の初恋のころを思い出しておられるのかもしれないわ。 「三人だったらポープ・ジョー|ン《※》[#※ポープ・ジョーン/ルーレットのようなボードに賭け金を置いて行うカードゲーム。]ができるわね! ね、そうしましょう」  なんて……  グレイスは思う。  なんて素直な笑顔だろう。なんて開けっ広げに喜ぶのだろう!  エレノアの友人でもあり、ウィリアムの妹でもあるグレイスは複雑な心地であった。ふたりの思惑《おもわく》の矢印が、あっちとこっちからきて、ぎりぎりを掠《かす》めながら、けっして交わらず、触れたり融合したりすることなく、ただ擦《す》れ違《ちが》って遠ざかっていくのが見えるような気がした。  この娘《こ》の純情を、兄さま、あなたは、どう受け止めるの……?  帰りの馬車に乗る時にも、エレノアは次の約束を欲しがった。今度はお芝居にいきましょう。お手紙かきますから。  これに対して、日時にしろ場所やことがらにしろなんら具体的な約束をせず、かといって、きっぱり断りもしないでただ笑ってごまかすばかりのウィリアムである。  擦れ違いは如実《にょじつ》であった。  ジョーンズ家の馬車が走り出す。ウィリアムとグレイスは隣り合って御者席を背にした位置に、父リチャードがひとり対面に進行方向を向いて座るかたちであった。  夜更けの石畳を行く車輪と蹄《ひづめ》のからからかぼかぽ言う音が落ちつくや、前置きぬきにはじまった。 「なぜあんなことを?」  ウィリアムが怖い顔をして父に抗議したのである。「冗談《じょうだん》にしてはやりすぎです。思わせぶりにもほどがあります」 「そうかな」 「キャンベル嬢にもご迷惑でしょう」 「わたしの希望を述べただけだが」 「そうでしょうか? まるで、もう決まったことのような言い方をしてみせてくださったではありませんか!」 「いかんか?」  気色《けしき》ばむウィリアムを、リチャードは、鋭く睨みつける眼光で制した。 「このまま決まってくれるなら実に結構なことだ」 「何を言うんです。いいわけないでしょう、第一、前にもいったとおり僕は……」  ──なにも聞かない、聞こえない。  グレイスは意識して耳を塞《ふさ》ぎ、音と意味を頭から締め出し、窓こしに滑りゆく夜のロンドンの町並みに目を投じた。  ガス燈や家々の窓の灯が、残像になって流れた。  飛びすぎる矢印。  すれ違う矢印。  けっしてひとつにならない矢印。  どちらの味方をしていいか、わたしにはとても決められない。  その頃アーバスノット家の厨房《キッチン》では洗い物始末も佳境にはいり、満ちた潮の大きく引いていく時の波打ち際のような何ともいいようのない倦怠感《けんたいかん》と寂蓼《せきりょう》と少しの充足感が漂っていた。あとすこしだ。あとすこしで一段落したら、休憩がとれる。おさがりの素晴らしく美味しいものをいただいて、あたしらはあたしらのささやかな宴会だ!  さしも働き者の階下の女たちも身体はもう限界にへとへとで、いざ、すべてがほんとうに片づいて緊張の糸が切れたなら、その場に倒れこんで眠ってしまいそうであったが、気力でなんとか持ちこたえているのだった。  当家恒例の大晩餐会がこのたびも無事に終わった。  まことにめでたく、嬉しいことだ! 「でも──」愚痴が出るのはようやく気が抜けてきてその余裕があるからである。「あんなに一生懸命つくっても自分たちで食べられないのって虚《むな》しいわよねぇ」 「けっこう食べさせてもらっているじゃないの」 「残り物じゃなくて」 「あら、わたしは満足だわ! ここにこなかったら一生ぜったい食べられなかったような物ばかり、ほんの一匙《ひとさじ》ずつでも、味見させていただけるもの」 「しょうがないわよ。上はお貴族さま、こっちはしがない料理人。その溝《みぞ》には、ロンドン橋もかけられないってね……!」 「そうでもないわよ」  ひとり、てきぱきと残り物を分配していたファースト・キッチンメイドが、冷静な声でいうので、みな、ことばを飲んだ。 「たとえ階下の料理人|風情《ふぜい》であろうとも、美味という武器でお貴族さまがたを感動させることができたなら、その一瞬は対等よ。いいえ、真剣勝負に勝ったも同然」  料理人はじめ、下働きの女たちがみな、黙り込んだ。 「あたしはそう思うよ」  その頃、家にたどり着いたエレノアは、侍女のアニーにドレスを脱がせてもらっていた。 「今日はないんですか」 「んー?」 「あのかたのお話は?」 「…………」  コルセットがはずれ、息が楽になる。  あのかた。  ウィリアムさま。  優しい。たくさん褒めてくださる。  わたしのこと、お好きなのかしら。  かぁっと、熱い血がのぼってきた。 「眠い」  うきうきする気持ちをアニーに気づかれるのが恥ずかしくて、エレノアは不機嫌そうにそう言った。さしのべられた侍女の手をはねのけ、ベッドにあがった。 「寝る」 「お嬢さま、髪ぐらいお梳きになられませんと……」 「いい。あしたでいい」  ふとんをかぶってしまった。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 10 " Farewell to Emma "  第十話 さよならエマ [#ここで字下げ終わり]  ──なにか誤解してしまっていたのだろうか。  場所か、時間か、勘違いしてしまっていたのだろうか?  待ち合わせの公園の目印となる、背中の翼《つばさ》をはためかせ両腕を高々と広げた女神像は、ギリシアかローマの神話時代のものだろう。その足元に、エマはひっそりと立ち尽くしていた。  時おり顔をあげて、周囲を確かめる。行き交うひとの中に、待ち人の姿はないかと。  話相手《コンパニオン》をつれて蝸牛《かたつむり》の速度でそぞろ歩きする老婦人、なにやら熱弁をふるって討論しながら通っていく学生たち。横手のベンチで弁当を使う煙突掃除人の周囲には鳩や雀が待っていて、食事を終えた彼が立ち上がりざま膝《ひざ》にかけていたハンカチを振るうと、先を争って大騒ぎをした。  ひとの有り様を眺めていれば興味は尽きず時は容易につぶれたが、約束の時刻をこんなに過ぎても現れないのはどうもおかしい。  なにか、不都合でも生じたのだろうか。  事故とか。  急病とか?  ……それとも、もしや、止められたのだろうか。お家のかたに。出掛けようとしているところを見つかって。逢いになど行ってはならぬと、説得されたか。  迷惑をおかけしてしまったのだろうか。  エマは小さくため息をつく。  最後のご挨拶《あいさつ》に、心にけじめをつけるために、せめて、ひとめだけでも、逢いたかった。いろいろと親切にしていただいたことにお礼を、お世話になったことをけっして忘れはしないと、夢のように素敵な時間を過ごさせていただいたことにほんとうに感謝していると、ただ、告げることができたら、それでよかった。  ただ、それにはもうあまり時間がなかった。今日じゅうに家主さんに鍵をお返ししなければならず、あの部屋にもう居られなくなる。そんなぎりぎりの刹那《せつな》になるまでなんのご相談もしなかったことをジョーンズさんは訝《いぶか》るかもしれないけれど……。  打ち明けられなかった。  いったいどう言えばいいのか、どういう言い方をすればいいかわからなかったからだ。  ちょっと間違うと、なんだか、ひどい誤解をまねきそうで……まるで、なにかの決断を迫っているかのように聞こえてしまいそうで。  ──父に話します。どこまでも説得してみるつもりです。  あんなにまっすぐな目をして言ってくれたことを疑っているわけではない。  だが、  ──ジョーンズ家にふさわしいレディなんだろうな?  結婚というのは一時のことではない。  同じ国のもの同士が望ましい──。  リチャード・ジョーンズ氏のいうこともよくわかる。いや、むしろ、そちらのほうが当然だと感じる。  ジョーンズさんの真心は嬉しい。ほんとうに嬉しい。天にものぼりそうなほど嬉しい。  だからこそ、  そんな有難い気持ちをこれ幸いと頼ったりするのは、いけないことだ。そんなのは、悪い女のすることだ。  エマはそう思う。  そう思う傍《かたわ》らから、でも、と、心は言う。  なぜ信じない? なぜ頼らない? なぜ彼にすがりついてはいけないのだ?  未練がましく、自問自答する。  彼はおまえを好いている。おまえの幸福を望んでいる。その証拠《しょうこ》に、おまえに、あんなくちづけをしてくれたではないか。  素直に、彼に賭ければいいではないか?  そうしてしまったら、エマは自分に答える、引き返せなくなるからだ。あのかたにも、自分にとっても、ほとんど望みのないほうへ無理にすすむような……手に手をとって断崖絶壁の縁から飛び下りるような……そんなことになってしまうからだ。  いまなら、まだ引き返せる。  それぞれに。  ここからなら、まだ、わたしもあのひとも、他の道に進むことができる。素敵だったけれど、すべて夢だったと。きれいな想い出だけを心に残して、波瀾万丈《はらんばんじょう》ではない人生を、和《なご》やかに慎《つつ》ましやかに生きていけばいい。そのほうが安全だし、そうすれば誰にも迷惑がかからない。  だから……  やはり、お手紙だけでお別れするべきだったかもしれない、もっと静かにおいとまをするように心がけたほうが良かった、とエマは思う。ジョーンズさんが事情を知った時には、もう、どこかに居なくなっていて連絡のしようもなくなっている……そういうふうにしてしまったほうが良かった。  なのに……  どうしても、最後にもう一度だけ、顔が見たかった。  声が聞きたかった。  あのあたたかな笑顔で、エマさん、と呼んでみせて欲しかった。  そうしたら、その記憶を大切に胸にしまって、どこかでやりなおせる、がんばっていけるから。  そのぐらいのわがままは、自分に許してやりたかった。  先日、カーテンなどの大物をたくさん洗濯していた時のことを、エマは思い出した。ふとしたはずみにきれいな大きなシャボン玉ができて、おりしも吹いてきた風にのって高く高く舞い上がった。花庭をふわふわ漂い、干してあるものを越えてのぼり、まばゆい陽差しに虹色に透けながら屋根まで飛んで……壊れて消えた。  ぱちん。  一瞬で。  消えてしまえば、もう、さっきまでそこにそれがあったことが夢のようだった。  ちょっと似ていても、シャボン玉はびいどう玉ではない。まして水晶ではない。誰にも何にも傷つけることができない、堅固なダイアモンドではない……。  でも。  だから美しかった。  もう、どこにもないものだから。  誰も知らない、わたししか知らない、わたししか見なかったものだから。  それをわたしは覚えている。心で覚えている。だからどこでもいつでも見ることができる。思い出すことができる……。  そんなシャボンを確かにみたことを、幸運にも、誇りにも、思って。  ……ふう。  エマは深呼吸をし、また、像の周囲をぐるりと一周し、あたりを眺めてみた。  やはり、ジョーンズさんはいない。きそうもない。  この町の男性たち……ことに紳士階級の人たち……はみんな、たいして代わりばえもしない服装|風体《ふうてい》をしているものだが、ちらりとほんの瞬間わずかに見やるだけで、彼であるかそうでないかはひと目でわかるのだった。どんなに遠くでも。たとえ横顔や後ろ姿でも。帽子をかぶっていようがいなかろうが。否応《いやおう》なく。  ちょっとした肩の線や首の伸ばしかた、頭のかっこう、そして歩く姿勢そのものを……いつの間にこんなにはっきり区別がつくほど見覚えてしまったのだろう、とエマは思う。他のどのひとも、あのひとではないと、すぐにわかる。  約束の時間はとうに過ぎた。  いくらなんでもおかしい。どこかでうっかりすれ違ってしまったのか、それとも、トラブルでもあったのか。  いったいどうしたのだろう?  いっそ、行ってみようか。彼の家まで。  思い立つとはやかった。  節制し、倹約し、馬車代を惜しんで滅多なことでは乗合も使わない習慣のエマは健脚であり、肺も頑丈であった。ひたむきに一直線に進めば女の足にしてはかなりはかが行った。矯《た》められた弓のように、グッと抑え込まれていた力がはじけたのかもしれない。  ただただいっしんに歩いて、歩いて、気がつくと、ハムステッドヒースの丘陵地帯の馬車道の長いのぼり坂をもう越えきるところだった。目的地はもうすぐそこだ。眺めやれば、それと知られる建物はひとつしかなかった。 「ハキムさま、みーつけた! やっぱりここだ〜!」  無邪気な顔を、藩王の息子はうっそりと見やった。水煙管《みずギセル》をひと口吸いつけ、ぷかあ、と吹かす。  正面玄関《ツアサード》の平らな屋根に、絨毯《じゅうたん》を敷き、傘をさしかけ、おつきの娘たちを侍《はべ》らせた豪華な一時的な慰安場所を設《もう》けて、寛《くつ》いでいる。 「おはよう、ヴィヴィアン」ハキムは言った。「なにか用でも?」  ファサードの下側では、メイドたちが三人ばかり、ヴィヴィアンのたてかけた長梯子《ながばしご》を必死に押えている。どうしてこんなところに登っちゃったの、なぜ早くとめなかったの、危ないからそっちちゃんと持って! などとバタバタしている。  その様子を見下ろして、ふん、とばかりに肩をそびやかしたヴィヴィアンは、おねだりをする時用の特別な笑顔をつくってみせた。 「ハキムさま〜、そんなに暇を持て余していらっしゃるなら、どこか行きませんか? ねぇ、自動車に乗せて!」 「そんなに暇ではない」 「えーっ?」ヴィヴィアンはふくれた。「嘘《うそ》ばっかり。だって、こんなところで、ただお空を見ていらっしゃるだけじゃないですか。それとも、何かしていらっしゃるの」 「なにもしていないが」ぷかあ、と煙を吐きながら、ハキムは大真面目に請《う》け合《あ》った。 「人間はときどき、なにもしないことを必要とするものなのだ。だいいち狭《せま》い屋内に閉じこもってばかりいては、気がめいる」  そうだ、そうだ、とガールズがうなずく。 「ウチ広いのに〜」 「いかなる国の宮殿も大地ほど広くはなく、どのような王の領地も空ほど大きくはない……ん?」  藩王の息子は顎《あご》をあげた。遠く、遥《はる》かな、丘の道の一点を凝視している。遮蔽物《しゃへいぶつ》のなにもない大地で寛ぐことを愛する王子の目は狩人の目、視野いっぱいの景色にふだんとごくわずかの差異が生じても、鋭く見抜く猛禽《もうきん》の目だ。  獲物を捉えた虹彩が、きゅっとすぼまる。 「……エマ」  ……すごい……お邸《やしき》……。  エマは息をのんだ。  足をとめるととたんに背中に汗がわき、乱れた呼吸が胸をはずませた。  帽子を脱いで顔を扇《あお》ぎたかったが、そんなことが許されそうな場所ではなかった。  ジョーンズ家の門には、人の背の倍をも超える高さの金格子がそびえ立っている。華奢《きゃしゃ》な浮き彫り模様をなしながら天を突くその上端は槍の穂先のように煌《きら》めいて、招かれざるものの訪問を断固として拒絶しているかのごとくであった。  その格子の隙間からうかがえるのはほんのわずかな部分だけだ。前庭はこんもりとした森をなして邸宅へ続くだろう小道に優雅な日除けをなしている。その木立のはるか彼方に邸宅が隠されているのに違いなかった。門のあたりの乾いた地面には、何種類もの轍《わだち》や蹄鉄《ていてつ》の痕跡《こんせき》が見受けられた。多くの客が頻繁《ひんぱん》に訪《おとず》れるのだろう。ジョーンズ邸の敷地は、エマには、ハイドパークほどもあるように見えた。  お金持ちだとわかってはいたが、これほどだったとは。  ジョーンズさんは……。  エマは心にため息をついた。  そんなことは、全然、わからせてくれなかった。態度にも、匂わせなかった──。  彼が、単に気さくなのではなく、世間の常識や自分の階級にまったく拘泥《こうでい》しない心の持ち主であるのだということを、はじめてエマはしみじみと実感した。  裏口はどっちだろう、頭をまわしてみる。  これだけのお邸だから、召使やご用聞きたちの使う出入り口がないはずはない。そちらから、そっと入れてもらったほうがいい。こんな正式な門をわざわざ開けていただくことができるような身分でも用件でもないのだから。  ……とっさにそう思ってしまってから、ほんとうにそうだろうかと自問する。ご家族のかたがたはともかくとして、ジョーンズさんは、わたしが、正門からまっすぐに入って行くことを望むのではないだろうか。こそこそと、裏口や破れ目を捜すようなことをするのはもしかしたら嫌がるのではないか……。  迷っていると、  キイ、  門が開き、痩せて長身のテールコート姿の初老の男が姿を覗かせたのだった。 「失礼ですが、当家になにか御用でしょうか」  執事さんだ、とエマは思った。たしか……スティーブンス。 「突然、失礼いたします」なにも後ろ暗いことなんかないのだから。胸を張って。 「ウィリアムさんはいらっしゃいますか」 「お約束で?」 「外で待ち合わせをしたのですが、逢えなかったのです」 「さきほどお出掛けになられましたが……行き違われたようでございますね」  執事の眼が……特に冷たくなんかないのかもしれず、これが彼のふだんの目つきなのかもしれないが、なにをきいても変化せず、いやに冷静で揺るぎなく、そっけなくとりつく島のないものに思われた……怖くて、つい、横を向いてしまいそうになる自分を、エマは必死にたてなおした。 「そのようですね。どうも失礼しました」  会釈《えしゃく》して、戻ろうとした。  すると、思いがけないことを、執事が言ったのである。 「よろしければ中でお待ちを」門をより広く開け、さぁどうぞ、というような仕種《しぐさ》をする。「待ち合わせの場所にあなたさまがおられなければ、ウィリアムさまは、やがてお戻りになられるでしょう。お返しすればまた行き違いにならぬともかぎりませんので」  案内されたのは庭に通じる明るい客間のひとつであった。シャンデリアも壁紙も、どれも、超一流の芸術品である。ことに、異国のものらしい目もあやな絨毯は苔《こけ》のようにふかふかで、一足進むごとに靴が半分ほども埋まりこんだ。  すすめられた骨董《こっとう》ソファにごく浅くなるべく体重をかけぬように腰かけながら、エマは緊張に背筋をこわばらせた。  高雅な意匠の布地を張ったナーサリーチェ|ア《※》[#※ナーサリーチェア/乳幼児を抱いて座る用途の安楽椅子。]やアームチェアが、あたり一面、無造作に、だが充分に計算されて、居心地よく配置されている。オーク、マホガニー、ローズウッド、材質はいろいろだが、深い色合いの黒にちかい琥珀《こはく》色がどうやら好まれているようだ。あちこちに配置されたサイドテーブルやラウンドテーブルには、種々の美術陶器や飾り額、ポプリポット、ガラス器、生花をこんもり飾りつけた巨大な花瓶《かびん》などなどが巧みにバランスをとって載せてある。びっしり置かれた写真たてには家族たちのさまざまな場面の画像がうかがえ、ジョーンズ家のこどもたちが華やかで幸福な日々をおくっていることをいやが上にも主張している。むろん、カーテンや飾り布なども、いずれも凝りにこった贅沢なものばかりである。  部屋中どちらを見ても、隙がない。飾れるかぎり飾りたててあり、どこもかしこもが、高雅な趣味と豊かな資産をしめす調度や什器《じゅうき》でいっぱいだ。本来は客を楽しませ寛《くつろ》がせ憩わせるための部屋なのだろうが、メイドのエマにしてみれば、その物量と高級ぶりに、ひたすら圧倒されてしまう。  これだけ複雑に飾りつけた部屋を毎日きれいに整えておくことの大変さが、身にしみてわかる。しかも部屋はここだけではない、屋敷じゅうに、数えきれないほどありそうなのだ。この家のメイドたちは、みなたいへんな働きものであるのに違いない。  万が一にも何かにさわって汚したり落としたりなどしてはいけないと思うと、ぴくりとも動くことができない。身がすくんでしまう。  南側テラスに面した掃き出し窓には、落ちついた色合いのステンドグラスがあしらってある。ドアごとに扇型に茶と黄のアラベスク模様を描いた下に、聖書のさまざまな場面を描いた具象画がはめこんである。生誕、説教、十字架。  さかまく嵐を描いた一枚に目を吸いよせられた。  沸き立つ水、いまにもひっくりかえってしまいそうな小舟、白いローブで艫《とも》に座して頬杖をつき浅くまどろんでいるように見えるのが若きキリストだろう。そのひとに激しく迫る姿をみせているのが、おそらく聖ペテロ。ガリラヤの漁師《すなどりびと》であったペテロすら怯えずにいられなかった悪天候にあっても、神のひとり児《ご》は安心しきって熟睡なさっておられるのだ。  その挿話を、むろんエマは知っていた。 [#ここから3字下げ] 湖に大暴風がおこって、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ、助けてください、わたしたちは溺《おぼ》れそうです」。 イエスは言われた。「なぜこわがるのか。信仰薄きものたちよ」それから起き上がって、風と湖を叱りつけられた。大凪《おおなぎ》になった|。《※》[#※「新訳聖書」[マタイによる福音書]より。] [#ここで字下げ終わり]  ──なぜ騒ぐ。なにを怯《おび》え騒ぐのだ。  主を……そしてわたしを……心底信じているならば、なにがこようと、どんな目にあおうと、泰然自若《たいぜんじじゃく》としていられるであろうに。  なぜ、そう、小さなことにびくつき、おののく?  哀れなり、信仰薄きものたちよ──。  眼鏡の下の目にうっすら涙がうかび、視野がにじんだ。エマはいそいで瞬《またた》きをして、ごまかした。  そうだ。こわがることなどない。恐れることはない。  わたしは恥ずかしく思わなければならないようなことはなにもしていない。神の前に顔をあげていられなくなるような罪などなにも犯していないし、この家に住む彼のご家族のみなさまにたいしても、誠実でないことは、なにひとつしていない。  神の|家《※1》[#※1神の家/教会のこと。]でも、地上のどこでも、なにも怯え畏《おそ》れる必要などないはずだ。  とはいえ、  ここにあるすべての宝物に対する敬意は消えなかった。  すべて、神ではない、どこかの誰かの手が造り出したものである。滅びるもの。死すべきさだめでありながら芸術の高みを知ることのできた希有《けう》なひとの手によってつくりだされ、ひとときこの世にあって、やがて壊れ古びて消えていくもの。  シャボン玉だ。  だが、美しい。  ここをこのように美しくたもっているのは、塵《ちり》にひとしきメイドたちの勤勉な手。誰かが毎日埃をはらい、注意深くきれいに磨かなければ、美は美のままにいない。  その誰かの生命もシャボン玉。  わたしと同じ。  そう思うと、見知らぬ部屋も、少しは好ましく親しいものに思えた。高価な贅沢品に威圧されるような気持ちも少し薄れた。  まだ、とても落ち着かない気分ではあったけれど、ジョーンズ家の「大きさ」に打ちのめされた気持ちではあるけれど、ほんの少しだけ勇気がわいた。  ネコがバイオリンを弾いて、雌牛《めうし》が月を飛び越え|る《※2》[# ※2/「マザー・グース」の一節より。]こともある。 [#ここから3字下げ] Hey, diddle, diddle! The cat and the fiddle, the cow jumped over the moon; The little dog laughed To see such sport, And the dish ran with the spoon. [#ここで字下げ終わり]  わたしだって、ここに居ていいのかもしれない。  そんなふうに思うと、唇《くちびる》に微笑《ほほえ》みを浮かべることができるのだった。 「……笑ってるわ……!」  ヴィヴィアンは驚いて思わず知らず大きな声で口走ってしまい、自分で自分の口を押さえた。  女中たちが妙にそわそわばたばたしているのに気付いて、何事ならんと様子を見にきて珍客を発見したのだった。  廊下の扉にほんのすこし隙間をあけて、観察している。 「やだ。なんなのあのひと。気味悪いわ。なにを笑ってるの? ねぇ、なんで?」 「あれが」アーサーはジョーンズ家伝統の緑の目を薄く細めた。「兄さんの、例の人なのか?」 「でしょう。そうよきっと。兄さまと待ち合わせしてたんだって。服だって貧乏臭いし」  そこヘグレイスが通りがかる。弟妹が下卑《げび》た覗きに興じているのを見つけて眉《まゆ》をひそめかけたが、そこで大声でたしなめるような不用意なことはしない。 「どうしたの」  そっと寄り添って、訊ねる。 「例のメイド。兄さんの」アーサーが答える。 「どうして客間なんかに通すのかしら」ヴィヴィアンは憤慨《ふんがい》している。「メイドなんて、台所で充分なのに!」  グレイスはかがんで、隙間に目をあてた。  その娘は静かに座っていた。凛と背筋を伸ばし、色の白い顔を庭のほうに向けて。  きちんと編み込んだ引詰め髪の縁から二枚のガラスレンズを支えるべく伸びた眼鏡の蔓《つる》の金属の細くまっすぐなさまが、その娘の清潔さと几帳面さを示しているようであった。  ──ひっそり咲く野百合《のゆり》のようなひとだわ。  グレイスの胸はかすかに痛んだ。  兄が彼女に惹《ひ》かれた気持ちが、ほんの少し、わかった気がした。  だからこそ、 「美人ね」わざと冗談《じょうだん》めかして軽くいったのである。 「メイドにしては」アーサーが肩をすくめる。 「やめてよ」ヴィヴィアンは頭から湯気をたてている。「どこがよ! ぜんぜん地味じゃない! どこをどうみても魅力的じゃないわよ、まだ若いのに、すっかりくすんじゃって!」  と。 「すまないが、そこを通せ」  渋いささやき声がかかった。  振り向くと、ハキムが立っていた。廊下の真ん中に。どこも力まず、しかし、どこにも隙のないさまで。  気圧《けお》されて、ジョーンズ家のこどもたちは無言のままに道をあけた。が、もっとも扉側にへばりついていた末のコリンだけが反応しそこない、うっかり逃げ損なって、ハキムと一緒にいったん扉の前にまろび出ることになってしまった。 「いきましょう」グレイスが妹をうながし、廊下を戻った。 「なんでよ? なんであたしたちが逃げなきゃならないのよ〜!」  怒るヴィヴィアンが叫んだところへ、焦ったコリンがはぁはぁ息を切らして追いついてきた。なんとかすぐにまた逃げ出してきたらしい。とんでもない冒険に、例によって、目を潤《うる》ませている。 「ハキムさん……」  突然の訪問者に、エマはあわてて立ち上がった。  かまわない、かけていろ、と手で合図をして、ハキムはすたすた近づいた。ぎこちなくまた座ったエマの斜め向かいに、どさりと座を占める。 「なにがあった」端的《たんてき》に訊く。「ウィリアムはどうした」 「公園で待ち合わせをしたのですが」エマは目を床に落とした。「行き違いになってしまったようです……わたし、帰りますので……」 「帰る?」  ハキムは眉をあげた。 「それだけ申し上げたくて。ハキムさんから伝えていただければ。……あ」  エマはバッグの中から、布でくるんであった写真たてを出して、手渡した。 「それと、これを」  幼き日のウィリアムが、はにかむあまりの不機嫌そうな顔つきでこちらを睨んでいる。  ハキムは鋭くエマの顔を見た。 「お渡ししようと。郵便で、なくなったり壊れたりするといけないので。では、これで……」 「待て」その腕をつかみながら、ハキムは顔をしかめる。「どうしたのだ。言うことがよくわからない。もう少し詳しく説明しろ。帰るとは、いったいどこに帰るというのだ」  問い詰められて、エマは小さく吐息を洩《も》らした。 「生まれた村に……」 「どこだそれは」 「海沿いの小さな村です」 「村の名は」 「……わかりません……小さかったので、よく覚えていないのです。ただ、村、としか──」  ハキムは切れ長の目を細めてエマを眺めやった。 「名もわからない村をどうやって捜す」 「行ってみればわかるかと。景色などで……知っているひとが、まだ誰か生き残っているかもしれないので」 「かもしれない。ということは、誰ももう知るものがないかもしれない[#「かもしれない」に傍点]のだろう。その確率のほうが高そうだな。愚《おろ》かな。なぜそんなところに行く?」  なぜって。  他にはあてがないからです。  どこかには行かなければならないからです。  どうか、わかってください。  せいいっぱいの思いをこめて見つめ返してみたが、ハキムの目は容赦《ようしゃ》しない。とうとうエマは口を開いた。 「ストウナーの奥さまがお亡くなりになって、ロンドンに居ることができなくなりました。リトルメリルボーンの家には、新しい借家人のかたがはいりますから……」 「そういうことか」ようやくわかった、というようにハキムは声を発した。「これを機会に故郷に行ってみて来るというのだな。で、こちらには、いつ戻る」 「戻りません」  エマは膝の上で手をにぎりしめた。 「……もう、戻りません。だから、ジョーンズさんに、せめて、お別れのご挨拶だけでもしようと……」 「なぜ? またわからなくなった」  ハキムはしなやかに姿勢をかえ、エマに詰め寄った。 「エマはウィリアムのことが好きで、ウィリアムはエマが好きなのだろう? なぜ別れる。なぜ、名前も知らぬ、知人もおらぬ故郷に戻る必要がある?」 「……あの」エマは声が震えないよう唇を噛んだ。「もういいんです」 「なにがいい。いいとはどういうことだ」 「あきらめます」 「なぜ」 「無理なんです!」  言ってしまって、自分で自分のことばに打たれる。  そうだ。無理なのだ。  わかっていた。最初からわかっていた。だが、わかりたくなかった……けっして割れないシャボン玉も中にはあるのかもしれないと、信じてみたかっただけなのだ……。 「無理なんです……」 「無理よ」ヴィヴィアンは断言した。「あたりまえじゃない。父様もそうおっしゃったんだし。ありえないに決まってるじゃない!」  ジョーンズきょうだいがとりあえず腰を据えたのは図書室だ。グレイスは見知らぬ女性を目にしてしまったショックでまださかんにしゃくりあげているコリンに洟《はな》をかませ、頬の涙を拭ってやっているのであった。 「なんだってまだ強情を言ってるのかしら。さっさと納得してあきらめればいいのに!」ヴィヴィアンはまだ怒って、椅子の肘掛けにやつあたりした。「しつこいわよ!」 「わたしたちがどうこう言う問題じゃないと思うわ」グレイスは静かに言った。「兄さまだって、きっとよく考えておいでなのよ」 「そうかなぁ」ヴィヴィアンは皮肉っぼく口を曲げた。「ウィル兄さまのことだもん、きっと何にも考えてないわよ。それより、あのひと、ちょっとばかり顔がいいからって勘違いしているんじゃない」 「くだらない」アーサーは棚の本をとりだしてぱらぱら眺め、またもとの位置にもどした。「俗っぽいこと、言うなよ」 「そんなひとには見えなかったけど……コリン、まだ苦しいの、もう一回フンして」 「だっておかしいもの、メイドなんて!」 「兄さんは楚々《そそ》とした美形に弱いんだろう」アーサーが瓢々《ひょうひょう》と言うのはどこか他人ごとのようである。「それとも、|Boule de suif《ブール・ド・スイフ※》[#※『脂肪の塊』モーパッサン(1880年)の原題で、作中の娼婦のあだ名。]にでも誘惑されたのかな」 「アーサー!」赤面したグレイスがあわててコリンの耳を塞《ふさ》こうとすると、 「きっとあの女、うちのおっとりした兄さまに目をつけて、もののみごとにたらしこんだ[#「たらしこんだ」に傍点]のよ!」 「ヴィヴィー、あなたそんなことば、どこで!」 「兄さまも兄さまよ、いくら暢気《のんき》だって、そんなのにひっかかるなんて」  ヴィヴィアンは両手をつっぱってパッと起き上がった。 「あたし、ひとこと言ってきてやる!」 「ヴィヴィー! ちょっと待ちなさいヴィヴィー!」  そうよ、きっとそうよ!  時計ウサギをおいかけるアリス嬢のごとく、長い廊下をけんめいに走りながら、ヴィヴィアン・ジョーンズは怒りにふるえた。拳《こぶし》をかため、目をらんらんと輝かせてわき目もふらず走るその姿に、通りすがりの女中やら召使やらは、仰天《ぎょうてん》して道を開け、後退《あとずさ》った。  身の程知らずなメイドが、能天気な兄をたぶらかして、だまそうとしているんだわ。あんな大人しそうな顔をして、きっと、ほんとうは、改心前のマグダラのマリアみたいな罪深い女なのに決まってる。兄さまをジョーンズ家の跡継ぎ息子だと知って、そんなことなら、同情をひけばきっと得をすると思ったのよ。  ずうずうしいったら! 「ウィル兄さまったら、もう!」  階段は、手すりを尻で滑り降りる。  兄さまときたら、ほんとにお人良しなんだから。こどもだってあきれるようなみえみえの詐欺師《さぎし》にも、きっと間違いなくひっかかってしまう、大道芸の手品にだって、ほうっと感心して、その間に掏摸《すり》にあうようなひとなんだから。 「甘いんだから!」  バン!  いきなり勢いこんで飛び込んできた少女に、エマは目を丸くした。 「あなたね!」愛らしい少女は、いかにも気が強そうに両足を踏ん張り、声を張り上げた。「なんのつもりか知らないけど、わたしがぜったい許さないから! あきらめてとっとと出ていって! ほら、出口はあっちよ、さっさと帰って!」  エマがぽかんと口をあけていると、少女はズンズン歩いてきて、目の前にふんぞりかえった。 「ウィル兄さまがどう言ったのか知らないけど……ウイル兄さまもウィル兄さまだけどあなたも常識なさすぎでしょう? ちょっと考えてみればわかるはずじゃない、使用人は使用人、主人は主人。そのぐらいのこと、あたしに言われるまでもなく……モガッ!」  ようやく追いついたグレイスが、口を封じて連れ去った。 「……いまのは……」 「ヴィヴィアン。ウィリアムの妹のひとりだ」 「妹さん……」  エマは吹き荒れた嵐に毒気《どくけ》を抜かれたような顔で、膝においた手に目を落とした。 「あんなちいさな妹さんが」  心配しているのだ──。  あのひとのことを。  他人を傷つけてもかまわないぐらい、まっすぐでけんめいな気持ちで愛している。大切にしている。  ああ、いいな、とエマは思った。  家族だ。 「……そうですよね……常識なさすぎでした……あたりまえでした」  あのお嬢さんの言うとおり、それが世間のふつうなのだ。  エマの目がふと、暖炉の上の写真たてにうつる。  家族の写真がたくさんある。そこに彼がいた。少年の日の彼。幼い日の彼。さまざまなおりおりの彼が。  ある写真では同じぐらいの年頃の女の子とテニスラケットを持って。別の写真では、揺りかごに眠る赤ん坊をのぞきこむようなポーズをとって。木漏《こも》れ日《び》のピクニック風景、乗馬風景、誰かの誕生日らしい飾りつけをされたテーブル。そこにはウィリアムにどこか似た男の子も女の子もいた。ウィリアムは長男だから、これは弟たち妹たちだろう。  家族で過ごしたさまざまな場面。ジョーンズ家のこどもたちの歴史。さぞかし幸福だっただろう、楽しかっただろう日々。  それは……エマにはあまりに遠い風景だった。  そんなこども時代を、エマは、知らない。  いちども体験したことがない。 「そうだったのに」  エマはあまりに悲しくなったので、反射的に、無理やり顔をはげまして、微笑みをつくつてしまう。 「つい……同じところにいるような気がして」 「いるだろう」ハキムが誇しがる。「同じ英国に」 「違うんです」  エマはようやくまともにハキムのことを見つめ返すことができるようになる。異国の王子ももうおそろしくない。彼が彼なりに揺《ゆ》るがぬように、自分もまた、この先はもう揺らぐことがないだろうと言えるから。 「ここにきてみて、よくわかりました」  この邸。この部屋。この富。 「あのかたとわたしでは、住んでいる世界がどうしようもなく違っているのだと」  彼にとっては空気のようにあたりまえなものである、これらの資産。うまれた時から囲まれてきた贅沢品の数々。幸福で満たされたこども時代。  長年かかって身につけてきた教養も常識も、好みも、経験も、基本的なものの考えかたも……自分にとってはあまりに遠く計り知れないもの。自分たちは、けっして同等だったり対等だったり、するはずがないのだった。  静かに立ち上がったエマを見て、ハキムはまた顔をしかめた。 「もう少し待て」彼は言った。「じき帰ってくる。せめて、逢って話せ。きみが考えていることを……しようとしていることを彼に説明するんだ。そのぐらいの義理はあるだろう? 彼が納得するかどうか──しないと思うが」 「いいえ。帰ります。考えてみれば、今日逢えなくて良かったのかもしれません。いまならまだ……このまま……」 「よくない」  ハキムは仏頂面《ぶっちょうづら》である。 「全然よくない。冗談じゃないぞ。わたしはライバルがあのウィリアムだというから身を引いたのだ。せっかく譲《ゆず》ったのに、そうあっさり諦められたのでは困る!」 「……そ……れは……」 「彼でないなら私にすべきだ」 「…………」  ──その頃──  リトルメリルボーン122の玄関を、ウィリアムは虚《むな》しくノックしていた。  返事がない。  玄関脇の小窓から見える廊下や応接間はがらんと整理されて、主立った家具が取りのけられてしまっている。そもそもそうして自由に中が窺えるのは、窓覆《カーテン》がとりのけられてしまっているからなのだ。  まさか……  ウィリアムは胸がどす黒くなるほどの不安を覚えた。  行ってしまったのか?居なくなってしまったのか、手遅れなのか、いったいどこにいるんだ、エマさん!  二三歩さがって、他の窓を見上げ、何か手がかりになりそうなものはないかときょろきょろしたが、なにも見つけることができない。もう一度コンコン叩こうか、それとも裏口に回ってみようか。ウィリアムが考えあぐねて立ち尽くしていると、 「ここんちに何か用か」  路上から、初老の男がひとりこちらを見上げている。両手をツイードのジャケットのポケットにつっこんで、ハンチング帽をかぶった男。口髭《くちひげ》をきちんと摘《つ》んである様は、そんなに無頼《ぶらい》なものとも思われないが。 「あの……」 「そこの家のは、ついこの間亡くなったよ」 「はい」ウィリアムは階段を駆け降りた。「それで、あわてて来たのです。先生のお墓はどちらなんでしょう? それに……ここのメイドは?」  男は灰青色の瞳にわずかの疑いをにじませて、ジロッと見つめた。 「あんた誰だ?」  答えた。 「ウィリアム・ジョーンズ? ああ」  男の口調がわずかに緩み、分厚い上着からひっぱりだした右手が伸ばされた。かぶっていたハンチング帽をちょいとはずして、挨拶をする。 「するってえとあんたが例の坊ちゃんですかい。アルってもんです。ケリー・ストウナーの死んだ亭主とは親友だった」  行き違いになったらしい事情を聞くと、アルはウィリアムを自分の下宿につれていった。あいにくと、いつものルース&ベアが定休日だったのだ。  ごみごみ入り組んだ下町の、馬車も通らないような狭い小路。一日じゅうろくに陽がささぬから、地面がきちんと乾くことがない。  なにかエキゾチックな食べ物を煮炊《にた》きするらしい匂いがして、赤ん坊の泣き声がして、建物の谷間の狭い空に洗濯物が翻《ひるがえ》って、生活に疲れた姿の女たちがからだじゅうにこどもたちをまつわりつかせながらいらいらと通っていく。  研《と》いだナイフのような剣呑《けんのん》な気配を漂わせながら路地裏の階段口に屯《たむろ》するまだ幼い少年たちには、おそらくろくな職も居場所も将来もない。  そんな町をアルはこともなげな顔ですいすいと歩いていった。生まれてはじめてこのような場末に足を踏みいれたウィリアムのほうは、油断するとなにか怖い目にあいそうで、ぴりぴり警戒せずにいられなかったが。  アパートメントの表口の鍵をあけ、ガタガタの中階段を昇った。家の戸口は立て付けが悪く、強く蹴りつけないと開けることができなかった。厨房《キッチン》はなく、古ストーブにのせたブリキのポットが唯一の調理用品であった。そのポットで、アルは、巧みにうまいコーヒーを滝れた。 「エマの母親が亡くなったのは、あの頃、何度も猛威をふるったはやり病《やまい》のためだったそうだ」  問わず語りに語りだした。 「それよりだいぶ前のことになるが、ダグラスも……ケリーの亭主も……同じ病気で死んでいる。ちょっとしたふしぎな縁というやつかな」  ──父親のことは何も覚えていないし、詳しく聞かされたこともない。母親とふたり、教区の牧師夫妻や親切なひとのお情《なさ》けと援助でなんとか食べていたのだが、母親がころっと死んで、叔父《おじ》のところにひきとられることになった。母親の弟だという叔父は、それなりに親切だったが、未亡人になった姉の面倒もろくにみられなかったぐらいだからな、あまり豊かな暮らしぶりではなかっただろう。こどももなくて、どうも細君に頭があがらなかったようだ。  叔父一家の暮らす村は、もとすんでいたところより、さらに小さく貧しかった。北海はドッガーバンクの浅瀬に面した海沿いの寒村のひとつだったらしい。  俺もともだちがひとりそっちのほうの出身だから知っているが、あそこらへんはひどいね。  真夏の一瞬だけじけじけとうだるような暑さが来る以外は、天候は年中かわらずどんよりと暗い。手を伸ばせば届きそうに低い雲がいつも頭をおさえつけ、しょっちゅう霜《しも》がおり雹《ひょう》が降り、ロングフォーティーズから吹きこんでくる冷たい潮風がなにもかもを凍てつかせるような場所だよ。砂浜ってもんもあるにはあるが、海水浴ができるような楽しいところじゃあなくて、波に揉《も》まれて黒い骨のようになった枯れ木がいくつもいくつも打ち上げられているような、とんとうら寂しいところさ。浅瀬の難所は荒れやすくって、魚も思い切って沖まで出なければ充分に漁《と》ることができないらしい。ところが、良い舟と漕《こ》ぎ手《て》がなければ漁場のある沖にはでられない。沖に出たくても稼《かせ》がなければ舟は買えるわけがないし、ひとも雇えるわけがない。堂《どうどう》々巡《めぐ》りさ。  まったく、この世は、底辺に住むものにとってほど、しんどいようにできているのさ。  エマの暮らした村のひとたちも、浜に出ちゃあ、ちょっとばかり掘って貝を拾い、海草をたぐり、たまに運良く見つかった小魚を必死に漁って、ようやく自分と家族の腹を満たすのがせいぜいってとこだっただろう。  エマが叔父さんに連れかえられたのは夏の終わり近い頃のことだ。ことさらに荒涼とした、これから長い冬にむかって希望も余裕も刻々と磨り減っていくような季節だってことだな。  子のない叔父夫婦だ、可愛がってくれてもよさそうなものだったが、エマはどうも、ぶっきらぼうな、懐《なつ》かないこどもだったらしい。つまりは愛想がない、可愛げがないってことだろう。血のつながった叔父さんのほうは幾分か絆《ほだ》されていたのだろうが、細君は、ただで使える労働力を手にいれたぐらいにしか思っていなかった。  エマは、毎日のように浜に出ては水平線のかなたを眺めていた。  おっかさんのことでも考えていたのかな。なぜ自分をおいて死んでしまったんだろうとでも、思っていたのかな。  岩間にくっつく黒い平たい貝を棒でほじくり出して集めるよう、おばさんには言われていた。空《から》バケツを持たされて、さぁ行けたんまり獲ってこい、いっぱいになるまで家にかえってくんじゃないよって、言われていた。そうかと言って、慣れない仕事だ、いきなりうまくできるわけないじゃないか。まだこどもで、力もないし、どこに貝ってもんがいるのか知識もないんだぜ。  ごつごつした岩の上で滑って、怪我をしたかもしれん。すり傷に潮はひどく滲《し》みたろう。幼いエマには、つらいことだったに違いない。  ある日、細君はエマをぶった。張り飛ばした。  エマがちっとも戻らないので迎えにいってみると、ぼうっと海など眺めていたからだ。しかもバケツはほとんどからっぽだったし。  なぜ言いつけを守らない、遊んでばかりで、と、いつもよりさらに激しく叱り飛ばされた。  おまえがくる前は暮らし向きがもう少しましだったとまで言われた。  細君は、ほとんど空のバケツを哀れなエマにつきつけて、町まで行ってこい、全部売り切ってしまうまで戻るなと言った。  それで、エマは出ていって……戻らなかった。  アルは黙った。  途切れた言葉の穴埋めのように、パイプの煙が漂い流れた。 「……厄介《やっかい》払いされたということですか?」ウィリアムは訊ねた。「そのおばさんのいる家には、もう居られなかった、と?」 「いや。貝売りには何度も行かされていて、それが初めてだったわけじゃないらしい。この時あの子はおそろしい目にあったんだよ」  近在の町への街道筋をとぼとぼと空に近いバケツをさげて歩いていたエマの前に、その男の馬車がいきなり現れた。  追い越していったかと思うと急にとまって、ひとがおりてきた。  真っ黒い影のような男。小山のように立ちはだかった男。悪魔そのもののような男。  そいつはなにも言わず、少女のエマの細っこい腕をむんずと掴み、無骨な手で顎を乱暴に持ち上げた。おそらく顔を……そこそこの器量かどうかを……確認したのだろう。ひっぱたかれた痕跡に気付いたかもしれん。  つばの大きな帽子の陰で、醜い口が満足げにニッと笑った。  そう、人さらいだ。  幼いエマにもそれはわかった。ぞっとし、なんとか抵抗して逃れようとした。だが男は大きく力強く、すばやかった。ひょいと脇に抱えあげられてしまうと、エマの手足は宙に浮いた。そこでどんなにもがこうと足掻《あが》こうとなんの役にもたたなかった。  男の闇色のマントに……タバコと酒となにかわからないが危険そうな金属っぽいにおいのする服に……すっぽり包まれると、何ひとつ見えなくなった。手も足もろくに動かせない。とてものことに逃れられない。そんなかっこうで荷物のように運ばれ、ドサリと降ろされたのは馬車の中。マントから放り出されながら落ちて、顔と膝をひどく床に打ち付けて、失神しそうになったそうだ。  それでも必死に跳ね起きて、戸口から走り出そうとしたが、どっこい男はそこに待ち構えていたんだ。せせら笑いながら、腹にブーツの靴裏をあててグイとばかりに押し戻されたので、ごく体重の軽いエマは荷車の反対側まですっ飛んでしまった。材木壁にあたった衝撃で目から火花が出、からだじゅうから力がぬけた。その隙に、男が御者《ぎょしゃ》席にまわったのだろう、荷車が猛烈なスピードで走りだした。  やっと意識を取り戻した時には、すすり泣く声が耳についた。  薄暗い荷車の中には、他にも何人も、囚《とら》われた女の子たちがいた。抵抗でもしてぶたれたのか、ひどく口もとを腫《は》らした、比較的みなりのよいこども。すでにぎざぎざな爪《つめ》をさかんに噛みながら、世を拗《す》ねたような目でじろりとこちらをながめるこども。縛られた痕跡らしい腕の赤みを、無言で撫でているこども。  女の子ばかり狙う人さらいが出没していることは、エマも知っていた。迷った家畜のように集められて荷車に乗せられて、どこかに連れていかれて、もう二度と家に戻れなくなるのだと。  叔父の細君がいかに意地悪で乱暴でも、あの家にいられたほうがどんなにかましだっただろうと思うと、はじめて、すまないと思った、もっとがんばって貝を捜せばよかったと、あの時は何度も何度も悔やんだ、と、あの子は言っていたよ……。  ウィリアムが怖い顔をして黙りこんでしまったのを見ると、アルは、いや、すまん、と声色を変え、姿勢を変え、手を伸ばして、コーヒーのおかわりを注いだ。 「だが、だいじょうぶ、あの子はうまく逃げたのだ。どこぞの人買いのところにつれていかれて値段の交渉をされている真っ最中に、隙を見てな」  ウィリアムはすこしばかり安心したように頬をゆるめ、感謝の気持ちをこめて瞬きをしたが、その顔色はまだ悪い。吐き気でもこらえているように唇を噛んでいる。 「まぁ、最悪の事態は逃れたといってもな」アルはつづける。「むろん、いろいろと大変だっただろうよ。十になるかならずの女のこどもが、着の身着のまま放り出されたのだ。右も左もわからない、大ロンドンのゴミ溜めのような場所にな。誰ひとり知っているものもなく、頼れるものもない。物乞いをし、裏口を叩いて歩き、親切そうなひとを探しては、せいいっぱい愛嬌《あいきょう》をふりまいてみる……そんなことしかできなかったろう。路上に眠り、残飯をあさる。人間というより、野良猫の暮らしだ」 「…………」 「あの子はそうして、生き延びた」  エマだけではない。  首都ロンドンに、大英帝国に、そんなこどもは大勢いる。掃《は》いて捨てるほどいる。孤児《こじ》も浮浪児《ふろうじ》も珍しくもなんともない。  極貧の暮らしゆえ我が子を捨てるものや早過ぎる自立を促《うなが》して家から追い払うものもよくあったし、負債《ふさい》の大きさに破滅すれば債務者拘置所《スポンジング・ハウス》にいれられ、彼(あるいは彼女)の扶養を必要とする弱いもの幼いものは全員路頭に迷うこととなった。  富めるものは貧しきものに施《ほどこ》しをするのがこの時代の習いだったが、たまさか目にとまったひとりふたりを気まぐれに助けてみたとしても、きりも限りもない。助けを必要とするものはあまりに多かった。多過ぎた。  それでも……  どんなに不運なこどもたちでも、まずは、それぞれひとりひとりがなんとかして生き延びようとする。  生き延びられなかったもの、生きるための努力をし続けることができないものは、誰に知られることもなく死んでテムズの泥となる。  エマは諦《あきら》めなかった。なんとかかんとかぎりぎり生きていければ、とりあえずはそれで良しとせざるをえなかった。  幼いエマの必死の嘆願に、思わずほだされてパンを一個、あるいはスープを一杯、さし出してくれるひとがあった。  そういうひとがひとりいれば、一日、いや、三日生きていける。  親切な施しをしてくれるのは、おもに、階下で働くものたち、しかもほとんどが女たちだった。やんごとなき筋が一生知ることもない苦労や困難を、彼女らはよく知っていた。自分自身が最底辺の境遇からなんとかはい上がってきた記憶が生々しいものもあっただろう。彼女らは自らも所有するものこそ少なかったが、おのれよりも哀れなものと巡り合わせてしまったら、いまたまたま持っているものから幾ばくかを差し出す用意はいつでもあった。  だから施してもらうほうも、いくら親切にしてもらえたとしても、同じひとりのひとにあまり鎚《すが》ってはならず、入《い》り浸《びた》ってはならず、しょっちゅう何度も顔をだして負担をかけすぎては、いけないのだった。だから、そういうひとを、それなりに大勢……あちこちでみつけなければならない。次々に開拓しなければならない。  何度も戸口をたたくうちに、しだいに勘が働くようになる。野良猫がのんびりひるねをしているようなお邸はたいがい浮浪児にも親切だ。痩せ犬に掃除水をぶっかけて遠くへ追い払うような家は、どんなに裕福そうでも、訪ねてみるだけ無駄《むだ》だった。きちんと掃除が行き届いていて、それでいて、ちいさな何気ないスミレかなにかの雑草が溝《みぞ》から生えているのは抜かずにほうっておいてやるような、そんな家なら、当てになる。  そんな家を訪ね歩き、多くの、名も知らぬひとの世話になった。  翌朝の朝食の用意の中から食べ物をわけてもらえたこともある。  そこの家の奥さまは素敵に美味《おい》しいパンの山からほんの一個二個数が足りなくなっていてもどうせ気付きもなさらないのだそうだ。ご自分はこれ以上太ってしまったらコルセットの力を借りてもお気に入りのドレスがはいらなくなってしまうから、むしろ、なるべく節制しなければとお思いなのだそうだ。せっかくつくってくれたものたちのために、ほんのひと口味見のためにかじって、あとは……とても美味しいけどごめんなさい、全部食べたらわたし、太ってしまうから!……と無駄にする。たださげられるなら下々で分けられるのだが、もったいないことにおもしろがって鳩に投げてやったりなさるのだ! そういうものを主人の台所から盗んでも、召使たちはたいして心をいためはしなかった。  夢中で食べながら礼をいうエマに、自分の姿をみてか、あるいは故郷の弟妹を思い出してか、礼なんかいいから黙ってたべな、喋《しゃべ》るとへんなとこにはいってむせるから、と、叱りながら心配しながら、そっと目をそらして涙を拭うようなメイドもあった。  ここなら安全だからと夜が明けるまで台所の隅で眠らせてくれたひともあった。雨の日にはほらあたっていきなと焜炉《こんろ》の横のあたたかな場所をゆずってくれたひとも。  穴だらけでぼろぼろなエマの服をみると、無言で、自分がいまきていた服を脱いで羽織《はお》らせ、そのままギュッと抱きしめてくれたひとも。あんたみたいな子をみると死んだ娘のことを思い出すよ、と子守歌をうたいながら静かに涙をながしたもうずいぶん年をとった女も。  花をまとめて小さなブーケを作り、とおりすがりの旦那さまに売りつける方法を教えてくれた少し年かさの少女もあった。  花は紳士がたの襟《えり》にかざっていただくか、または、どなたか求婚すべき淑女さまへの捧げ物となる。紳士のかたがたは、見ず知らずの哀れな幼い花売りに、いつも親切なことばや笑顔をかけてくださる。だから、エマも紳士には近づいた。  花売りの先輩の少女に、男はこどもだろうとおとなだろうと危険だから、とにかく近づくな気を許すなと強く忠告され、その教えを忠実に守っていたのだが。  上流社会のかたがたというのは天使のようなものだから、と母親が生前教えてくれた。だから、けっして、ひどいことなどなさるわけがないんだよ。  ロンドンの街を行く紳士たち淑女たちを、エマは、母に教わったままの目で眺めていた。つねに、教会の天使の彫像に対するような、賛美と敬意とあこがれを抱いていた。  天使は、時々地上におりてくる。我等の苦境を見かねて、助けの手を差し伸べにきてくれることもある。  だが、翼を持つものたちは、ずっと地上に居はしない。彼らの住まう場所はここではない。彼らは、天のいきものであって、一年中美しい花のさきほこる神の庭に、純白の雲の漂う世界に生きているのだ。 「コベントガーデン界隈《かいわい》で、花売り娘をやってたそうだ。しばらくそうやって暮らしているうちに、どこかの貧しいご婦人に見つけてもらって、可愛がってもらったらしいよ」  アルはつづけた。 「エマはあのとおり見た目がけっこうきれいだし、話してみれば、利発で真面目な性分《しょうぶん》なのがすぐにわかる。  そのご婦人というのは、庭いじりが趣味だったのだが、年でからだがきかなくなってきていたところだったらしい。庭仕事というのはあれでけっこう重労働が多い。土を運んだり、如雨露《じょうろ》で水をやったり、大量の苗をあっちへやったりこっちへもってきたりするのに助手が欲しかったわけだ。  そうして、用事がある時に便利に呼びつけて働かせていたのだが、冬になって、寒さが厳しくなってくる。いったいどこで寝ているのやら、いずれまともな塒もないのだろうエマを、たぶん気の毒に思ってはいただろうが、婦人のところにはひとを雇うようなゆとりはなく、住み込ませるだけのスペースもなかった。はたまた、婦人そのひともいよいよリュウマチスになったか、身体の具合が悪くなってきた。医者にいわれて、田舎の親戚のところへ行くことになり、とうとう教区の牧師にエマのことを頼んだ。いい子だから、なんとか面倒をみてやってくれというわけだ。  で、こんどは、牧師のところで雑役《ざつえき》見習いみたいなことをやっていたのだが、それをたまさかケリーが目に留めた」  読書会の世話係のアグネス・ガーランドと、次の集会でのテーマについて相談した帰り道だった。  ケリー・ストウナーは、牧師館の庭で働いているこどもを見た。石拾いか、草むしりかなにかだろう。ボロを着て、小さくうずくまって、一心に作業をしている。日向《ひなた》のまぶしさにうつむいているので、最初、男児か女児かもわからなかったが、目をこらして見ると、どうも長い髪を清楚なおさげに編んでいるようだ。  女の子だわ。とケリーは思った。あんな痩《や》せて小さな子がこんな炎天下に……不欄《ふびん》なこと。 「……ジョーンズ家をやめることにしたんですって?」  アグネスが訊ねたので、ケリーは我にかえった。 「ええ、次の子はまだ小さくてね。しばらくはお役に立つこともなさそうだし。わたしももう年だから、楽させてもらうことにしたの」  話しながら、歩きながら、ケリーの目は働くこどもの姿を眺めつづけた。  まず目にとまったのは、大き過ぎる服の長過ぎる袖《そで》をきちんとまくりかえして、けっして落ちてこないよう、わざわざひもをつかって縛ってまとめてあったところだ。作業のじゃまになっても、何度も落ちてくるたびにずりあげるだけでただ漫然とほうっておく者が多いだけに、この工夫には目を惹かれた。続いてそのこどもがやや顔をあげたので、不思議に凛とした顔だちに心を惹かれた。大き過ぎるほど大きなはしばみ色の瞳は聡明そうな光をたたえている。眉は人生の辛酸を知り尽くしたかのようにかすかにひそめられたかたちに固まっている。泥をなすったよごれのある頬は作業に集中している証拠に、キュッとすぼまっていた。  たわいない相槌《あいづち》をうっていた相手のことばの途切れ目で、ケリーは訊ねた。 「ねぇ、あの子は誰?」 「え? なに? どの子のこと? ……ああ」アグネスはケリーの視線を追って、理解した。「エマ! ちょっと」  呼ばれて、こどもは、ハッと顔をあげた。 「こっちにいらっしゃい」  呼ばれたこどもは、立ち上がり、泥よごれをはらいながら、怪訴《けげん》そうにおずおずと進み出てきた。 「エマっていうの。ずっと道ばたで暮らしてきた子なんだけど、なにかやらせてやってくれないかって言われてね、牧師さんが簡単なしごとで使ってやっているの」 「ふうん」  ケリーはエマをみた。エマはケリーをみた。 「賢そうな顔をしてるわ」  ケリーは微笑んだ。 「そういえば、メイドがひとり欲しいと思っていたのよね。あなた……エマって言ったかしら? わたしのところに、来ない?」 「ちょっとケリー、冗談でしょう」アグネスが口をはさむ。「この子、なんにも知らないわよ。メイドのしごとなんてできるかしら」 「上等」ケリーは笑顔をつくった。「わたしね、前から思っていたのよ。教育ってのがどれほどのことができるものなのか、試してみたいと」  ケリーは、エマのほうに屈みこむと、ささやくように言った。 「お給金はあんまり払えないけど、そのかわり、必要なことはみんな、一からしこんであげる。どう。それでいい? うちにくる?」  エマはまじまじとケリーを見つめ返した。  その、見ようによってはふてぶてしく思えるかもしれないほど落ち着いたさまが……そう簡単には心を開こうとせず、クールにひとを観察するような態度が……ケリーには、かえって好ましかった。  根性のありそうな子じゃない。  辛抱《しんぼう》強く教えれば、かなりのことを身につけることができるかもしれない。  エマはそんな年齢のこどもにしてはしかつめらしい顔つきに眉をひそめてゆっくりと考えこんでいたが、やがて、かすかにうなずいた。 「はい、奥さま」 「きまりね」 「もう!」アグネスは腰に手をあてて、怒ってみせた。「ひとの忠告なんかぜんぜん聞かないんだから! どうなっても知りませんからね」 「ケリーが思った以上にうまくいったってことだろうな」と、アルは肩をすくめる。 「……どっちにとってもな。手癖《てくせ》の悪いガキを家にいれれば、ケリーは寝首を掻かれたかもしれない。エマはエマで、ご立派そうな奥さまが、実は年端もいかない娘を抱え込んで妙な商売をしようとしている吸血鬼じゃないのかどうか、わかったもんじゃなかったんだから。  教育というものの力を試してみたいといったところで、もともと、そんなにがんばって教え込むつもりだったわけじゃない。必要最低限、メイドのしなきゃならないことを覚えこませようぐらいだったんだろうが、あまりに物覚えがよくて、出来のいい生徒だったもんだから、ケリーはすっかり教えるのが面白くなってしまって、たいそう熱心にやっていたよ。読み書きだの。詩だのなんだの。  ともかく、そんなわけで、うまくいった。幸いにも。  エマは寝床と仕事を見つけ、家事のやり方や基本的な行儀作法や、学問を教えてくれる教師までも手にいれた。ケリーは、真面目でじょうぶで献身的によく働いてくれるメイドと、自分が持っている知識や経験を吸取紙《すいとりがみ》みたいに飲み込んでいく賢いこども……教《おし》え甲斐《がい》のある弟子……をみつけたわけだ。ようするに、どちらも、信じていい相手、信じなければならない相手を信じたのだ。とことんな」  ウィリアムは無言でうなずいた。  目に見えるようだった。  まっしろなノートのようなエマに、家事のやりかた、しゃべりかた、読み書き計算、食事のマナーなどなど、ありとあらゆることを丹念に教えこんでいくケリー・ストウナーの姿がまぶたに浮かんだ。  嬉々として。  そんなことばが浮かぶ。  きっと、教師も生徒も、どちらも夢中で幸福だっただろう。  いま思えば、あの家の空気がそれを物語っていたのだった。リトルメリルボーン122番地は、すてきな家だった、こぢんまりとしてけっして贅沢ではないが、きちんと整っていて、必要は満たされていて、居心地がよかった。  そう何度もいったことがあるわけではないが、あそこで、自分は、どんなにくつろげただろう。  あの家がもうなくなってしまうのだ。  そう思うと、ウィリアムの胸はぽっかりと穴があいたようだった。  見れば窓の外は茜《あかね》色、垂れ込めた雲に陽がおちかかっている。思わず椅子を鳴らすと、 「帰るか」  アルが帽子のつばの陰から目を寄越した。 「はい。もう一度、先生の家にいってみます。もう帰っているだろうと思うので」  ウィリアムは立ち上がり、脱いでいた帽子を取りもどした。 「そうか」 「コーヒーご馳走さまでした。それと……ありがとうございました、貴重なお話を聞かせていただいて」 「気にすんな」  アルは座ったまま、振り向かなかった。 「ちょっとした気まぐれだからよ」  スティーブンスは開け放った正面玄関のところに立ち尽くしている異国の王子を見た。広い庭ごしに、遠くを眺めている。 「……ハキムさま?」  声をかけると、藩王の子息は、ふう、と大きく息を吐いた。 「行ってしまった。このわたしが本気で止めたというのに」 「あのご婦人ですか」 「旅支度《たびじたく》があるそうだ。だったらいちばん速いゾウに乗せて送ってやるといったのに、それも丁重に断られた。意外に強い」 「それはお断りになるでしょうな」スティーブンスは顔色ひとつかえずに断定した。 「英国女性はたいへんに慎み深いものなのです」 「インド女性だって慎み深いぞ。隠すべきところは隠している。なんだ? 慎み深いとゾウに乗れないのか? なぜ?」ハキムは顔をしかめた。 「ウィリアムさまは……」 「まだ戻らん。とにかくちゃんと話をしろというのに、エマは待たずにいってしまうし。いったい何を考えているのやら、あのふたりはよくわからん。さっさと会って、娶《めと》るなりなんなりして、幸福になってしまえばいいのだ。祝いにゾウの二三十頭はくれてやる!」 「なにか不測の事態があったのやもしれませぬな」 「不測? 牛に通りを阻《はば》まれたとか?」 「それは無いかと存じますが……」  リトルメリルボーン122番地に帰り着いたエマは、屋根裏への長い階段を息をきらしもせずに登りきった。  支度は既にほぼできていた。そもそもエマの所有していたものはひどく少ない。亡きケリーから形見分けに貰うことにしたものも多くはなかった。古すぎて引き取り手のない旅行鞄《グラッドストーン・バッグ》を譲《ゆず》ってもらってあったが、持っていくことにした荷物はその半分をも満たさなかった。  きちんとメイクした寝台に──何年もの間ここで暮らしてきたのに、いま、去ってしまえばもう二度とそうすることはないのだ、などと考えはじめると手がとまってしまいそうだから、わざと、なにも見ず、なにも考えないようにして──鞄《かばん》を置いて、ひとつだけ確認した。  一度も使ったことのない、あの、レースのハンカチが、そこにちゃんとあるかどうか。  いまだ、売られていた時にかけられたアイロンもそのままの真新しい状態のそれを、エマはみつめた。  まだ迷っていた。持っていこうかどうしようか。  なまじこれがあると、なにかの時に、つい頼ってしまうかもしれなかった。これは、ひとときの夢の証だ。夢など、もう忘れてしまうほうがいい。シャボン玉は、割れてしまったのだから。いつまでも執着していると、自分が苦しい。  ウィリアム・ジョーンズをあきらめた証に、このまま、ここに置いていこう、と、何度も思った。誰か見つけたひとが喜んで使ってくれればいい。  だが……  やはり、手放せなかった。捨て去ることはできなかった。  けっして甘えませんから、ただ、ひっそりと大切に持っていることぐらいは、どうか許してください……神さま。  すかすかの荷物の真ん中あたりに大切にはさみなおして、エマは鞄の蓋《ふた》をしめた。ふつうにおろしても金具が留まらなかったので、あらためて勢いをつけて、叩きつけるようにおろした。バン、と妙に大きな音がした。  なにかを……単なる鞄ではなく……運命の扉のようなものを、決定的に、閉ざしてしまうような音だった。  扉をしめて。  鍵をかけて。  この鍵を家主に返したら、それで区切り。  旅行鞄をひとつ、ゴブラン織の布バッグをひとつ。一張羅《いっちょうら》の外出着に季節には少し遅れぎみのケープをまとってアプローチの階段をそっと降りれば、後戻りはできなかった。野良猫のような暮らしに別れをつげてから、人生のほとんど大半を過ごしてきたような気のするこの家とも、もう、永遠の、お別れだ。  ここが、居場所であり、働き場所であり、学び場であり、祈る場所であった。  守ってくれ、包んでくれ、|育《はぐく》んでくれた。  家《ホーム》だった。  雨の降る日も、寒さにかじかむ日も、季節の祝いや記念日も……いつも、ここにいて、ここで過ごした。ここが、すべてだった。  厳しいけれど優しかった女主人とともに、リトルメリルボーン122番地のこの小さく質素だが居心地の良いタウンハウスが……自分を一人前のメイドに……そして、女に……してくれたのだ、と思う。  そのここを、いま、出ていく……。  エマは一度も振り向かなかった。ただ静かに歩き出し、そのまま歩いた。  もしここで反対方向の道を選んでさえいたら……そちらからちょうど息せき切って走ってきたウィリアムと、ほどなくばったり出会うことができたであろうに……運命はふたりをわずかな差ですれ違わせてしまうのだった。そんなことに気付きもせぬまま、エマは家主宅に寄って鍵を返却し、やがてきた乗合馬車に席をみつけ、見知らぬ大勢のひとびととともに運ばれていった。 「あったー!」  よそのこどもが窓外の建物をみつけて指さし、甲高《かんだか》い声をあげる。 「えきー!」  はしゃいで乗り出そうとするあまり、窓際のエマの膝に手をついてしまって、馬車の揺れにがくりとからだをずらす。落ちないようにエマはあわてて抱きしめてやった。 「これ、行儀のわるい!」  幼女の祖母らしい婦人が低い声で叱り、エマに、ごめんなさいね、と謝った。  馬車が駅前に到着する。ひとびとは順番に降りて、それぞれの方向に向かい、ひとごみに紛れた。  キングズクロス駅はロンドンの中心部、リージェントパークの動物園のすぐ東のユーストン駅の、さらに東側にある。採光のためにたっぷりと大きな面積を割いたガラス窓がふたつのアーチを描く中央にこぢんまりとした時計塔を戴《いただ》いた特徴ある駅舎は、1852年開業。1838年にできたパディントン駅ほどには古くはないが、イングランド北東部やスコットランド、つまり、グレートブリテン島の北側と首都ロンドンを結ぶグレート・ノーザン鉄道のターミナル駅である。  ロンドンっ子たちの始発駅、おのぼりさんたちにとっての終着駅は、今日も雑多な喧騒《けんそう》で賑わっていた。ひと目で見渡すその中に、老若男女《ろうにゃくなんにょ》あらゆる階層が互いの袖が触れ合うほどこちゃまぜに同居せざるをえないありさまは、古風な育ちかたをした老嬢などにとってはいかがわしくさえ感じさせるものであっただろう。旅客と送迎人、駅員や赤帽、種々の業者たち。  ひと待ち顔で立ちつくすひとびとの中には、カモを物色する掏摸《すり》や詐欺師《さぎし》や、どんなものなのかまだわかっていないがともかく自分の運命がどこかからやってきてくれないかと待ちくたびれている失業者たちもあっただろう。軽装で旅慣れた風情のビジネスマンも、引っ越しでもするのかと思われるほどたくさんの荷物を召使たちに持たせた富裕な家族旅行者も、同じプラットホームを分け合い、ひとつ列車に乗り合わせていくことになるのである。  エマは切符売り場の列に並んだ。なかなかすすまない。エマのいる列の先頭にいる禿頭の人物が、なにやらややこしい注文をして窓口の係員を困惑させているようだ。隣の列のほうがずっと早い。焦れて、移動するものも何人かあった。  あちらに並べば良かっただろうか、と思ったあとで、エマは苦笑する。  急ぐ必要などひとつもないのだった。  小さく吐息をつきながら、足を踏み替え、手にしたトランクを持ち替えて、待っていると、やがて列が進み出した。つっかえていた分を取り戻すようにどんどん捗《はかど》って、すぐにエマの番になった。 「次の列車でスカボローまで、おとな、片道、三等車一枚お願いします」 「ドンカスターでノースイースタン鉄道に乗り継ぎになります」機械的に返答をして、片手で切符をめくりかかった係官が、おや、というように眉《まゆ》をあげ、二三枚の書類をめくり、こちらからは見えない壁のどこかを窺って、ちょっと苦笑するような顔になった。 「すみません、二十八分発の三等車はすでに満員です。その次というと……えー、十九時四十七分のヨーク行きになりますな」 「十九時……ですか」  三時間近くも先の発車で、しかも途中までしかいかない。ヨーク到着はおそらく深夜に近いだろう。そんな真夜中に見知らぬ場所で降ろされても、困るだけだ。 「スカボローまで行く次の便は明朝になりますね」なんでもなさそうに駅員はいったが、この混雑しきった駅でそんなに長いこと待たされたのではとてもかなわない。「おっと、二十八分の、二等車ならまだ空《あ》きがありますね……値段は五六シリングしか変わりませんよ、どうします?」  二等……。  しつけぬ贅沢《ぜいたく》を提案されて、エマは反射的にとんでもありません結構ですと言いそうになった。だが、これを断れば翌朝まで、どこか居られる場所、泊まるところを捜さなければならない。そのほうがよほど散財になるにちがいなかったし……エマの背中側に、また、ひとが溜まりはじめている。はやくきめなければ迷惑だった。 「じゃあ、それで」 「はい」  改札を通ろうとすると、よその紳士に先を譲《ゆず》ってもらった。切符をみた係官が、乗るべき客車のありかを教えてくれた。エマはすすむ。ドーム型天井の駅舎の喧騒を縫って、自分を、北の故郷に連れ帰ってくれるはずの列車の座席をさがして。  ──この前、汽車に乗ったのは……  エマは思い出す。  ──ヴィクトリア駅から。あのひとといっしょだった。  係員たちの業務連絡、オレンジ売りの口上。  ──あの時も二等だった。  誰もこなかったから、広いコンパートメントにずっとふたりきりで。  あのひとの金髪が、光に透けていた……。  ほんとうにいい天気だった。  なんていい天気だっただろう……。  いま、ここには陽光は注いでいない。混み合うホームにはさまざまなひとびとがおり、それぞれの人生の一幕を体験している。  慣れぬ列車の事故を心配する母親は、ほんとうはたぶん娘がロンドンを離れてしまうことそのものに気がすすまず、大丈夫だってば心配しなくてもと少し声がとがっているその娘は、心配なんかしてほしくない、老いた母など追い払って、自分の人生を自分で生きていきたいのだ。  身分にしたがって三等に乗りこむことになる従者たちは、とうぜん一等に乗る老主人とは離ればなれになるわけで、その時がくる前にあれこれ世話をやかずにいられない。襟巻《えりま》きがここで葉巻がここでお飲み物はこれですから、次はどこそこ駅についたらまた御用を伺《うかが》いにきっとまいりますから、それまではなんとかこれで間に合わせておいてくださいまし。  こどもたちは床にしゃがみこんでチョークで機関車の絵を描いている。これがミッドランド鉄道の、こっちがグレート・ノーザンの、と詳しい知識を競《きそ》い合《あ》い、そんなところにらくがきをするなと叱られる。  すみません、道をあけてくださいと声をかけて大きな荷物が通る。  ひとと、荷物と、人生が行き交う。すれ違う。  わたしは、どちらへいったらいいんだろう? 車輛番号と切符を見比べてとまどっているエマに、 「あなた、ちょっとこれ見てきてちょうだい」  小さな紙片がつき出された。  え、ととまどって振り向けば、濡れ羽色の髪を品よく結い上げ、美しい帽子をあしらった貴婦人である。 「やっぱり番号ちがっているらしいわ。いまなら間に合うだろうから、いそいで替えてもらって……」  反応がないのに素早く気付いたのだろう、こちらに目をやって、貴婦人も、あら、と顔に朱を散らした。 「奥さまぁ!」エマのかぶっているような帽子をかぶった、やはりメイドらしい娘がひとり、人垣を蹴散らして駆けてきた。「すみません、ダメです。むこうのほうも、すごく混んでます!」 「ごめんなさい」貴婦人はエマに微笑みかけ、謝った。「間違えてしまったわ。背恰好が似ていたものだから」 「いえ、かまいません」  軽く会釈《えしゃく》を返して行き違う。背中に、え、わたしとあのひととお間違えになったんですかぁ、と他家のメイドがけたたましい憤慨の声をあげるのが聞こえた。あんなきれいなひとに間違われるなんて、ちょっと、嬉しいですけど!  ウィリアムは駅前広場で馬車を飛び下りた。  リトルメリルボーンの家が無人だったので、しょうがなくハムステッドヒースの自宅まで戻り、エマが訪ねてきていたことを知ったのであった。ハキムにことの次第を聞くやいなや、取るものもとりあえず、飛び出してきたのである。秩序《ちつじょ》もなく行き交うひとの流れを、右へ左へ、必死にかわしながら駅に近づく。気ばかり焦《あせ》るのになかなか前にすすめない。  また、大きな馬車がちょうどそこらに到着して、わらわらとひとがあふれだして、前をふさぐ。  ああ、また人込みが。  ええい、頼む、道をあけてくれ! 行かせてくれ!  だが、いくら地団駄踏んでも、乗合馬車から降りるひとの数はあまりに多く、年取ったものやこども連れのものたちは動作がのろく、はじめて駅を見ていやぁすごいねぇと感動する声をあげるなどして足をとめ、なかなか道をあけてくれないのだった。しょうがない、回り道をするか、と走り出しかけた時。 「……旦那さま!……」  道をふさがれた。煤《すす》だか泥だかでひどく汚れた顔をした幼い女の子が、隙っ歯をみせてにっこり笑いながらウィリアムを見上げ、なにかをつきだしていた。 「ねぇ、買ってよ、お花! 一ペニーだから」 「すまん、急いでるんだ」  それでも顔をしかめず、いきなり力ずくで突き飛ばしもせず、なるべく親切そうな声をだそうと心がけたのはウィリアムのせいいっぱいの優しさだった。ほんとうのところ、早くどいてくれ、邪魔をしないでくれ、と、悲鳴をあげたいような気分だったのだから。 「ごめん、すまないね、通してくれないか」  必死の顔がわかったのだろう、 「ちぇっ、次は買えよ、ケチんぼ〜!」  女児はイーだ、をして、顔じゅうを口にして、道をあけてくれた。  駅舎に走り込み、入り乱れた人込みにくらりとめまいを覚えた時、ウィリアムはハッとした。  花売り娘。あの子は花を売っていた。  いったいどんな花だったのか、まったく目にはいっていなかった。  ……エマもあれをやっていた。  道端《みちばた》で花を売って生活していたのだ。  アルという男から聞かされたばかりの話が、遅れて、蘇《よみがえ》ってきた。  あの子は、十何年か前のエマのようなものだった。いや、エマそのものだったかもしれない。  焦燥《しょうそう》のあまり惑乱したウィリアムの脳には、花売りをする少女時代のエマがいとも悲しげな顔でこちらを見あげている姿が浮かんでならなかった。  買ってやればよかった。たった一ペニー。いくら急いでいるといっても、ちょっと立ち止まって代金をはらって花をうけとるぐらいの間は割けなかったわけじゃないのに。  その頃、エマはようやく切符に記してあった車輛をみつけ、乗り込もうとした。 「……あの……」  ぼろぎれのようなストールをまとった小さな女の子が、わなわな震えながら、声をかけてきた。 「お……お花……」  片手に籠《かご》をもっている。花売りだ、エマにはすぐにわかった。まだ新米。幼すぎ内気すぎ、こわがりすぎて、ちゃんとした売り込みのことばをいうこともできない。  それでも、  籠いっぱいの花を全部売ってこいと、売ってくるまで家にもどってくるなと、誰かにいわれて、駅にやられたのだろうか?  赤くまぶたを泣き腫らした目が、この子のおかれている状況の一端を雄弁に物語っているのだった。 「……いくらなの?」 「い、一ぺに」 「じゃあ、ひとつちょうだい」  エマがいうと、怯えて、なにかあったらいまにも逃げ出しそうにしていた少女の顔に、ほんの少し、赤みがさした。ひびわれた唇《くちびる》が、えへ、とぎこちなく笑った。安堵《あんど》したように。  それから、少女は、籠を陽《ひ》の光のほうにかざして、いっしょうけんめい、花を選《よ》った。いちばんいいのをくれようとして。  ひとつだけでごめんね。  うけとって、かわりに硬貨《コイン》をさしだす時、エマは少女の手を一瞬キュッとにぎりしめた。  ……あなたもがんばって。  喜ぶ少女に手を振って、汽車に乗り込んだ。トランクを棚にあげ、座席に腰を据える。  このコンパートメントにはエマしかいない。さすが二等客車は贅沢できれいなものだ。清潔なにおいがする。  いや、ちがう。この香りは。  買った花をみつめる。  ……スズラン……。  誰のものなのかもわからぬ靴に踏みにじられた草を、エマは思った。もうあとほんの  少しで咲くことができそうだったのに、なんの咎《とが》もなく奪われた生命を。もう二度と戻ることのできない懐かしい庭で、ひっそりと|萌《めぐ》み、また散っていった花を。  だが、花は、ここにあった。  ここで、咲いている。  まだ生きている。  スズラン、またの名を、君影草《きみかげそう》。──遠くにいるひとを忍ぶ花。  ベルが鳴る。  発車のベルが。  警笛を鳴らし、機関車が走りはじめた。  汽車がゆく。  がっしゅがっしゅと音高く、蒸気の湯気と石炭の黒煙を力いっぱい吐きだして、19世紀末文明の最先端、高速大量輸送機械が出発する。たくさんのひととものと思いを乗せて、一路、北へ。長くながくどこまでも続くかに見える銀色の二本の道……線路に、重々しい響きを残しながら。  何輛も何輛も連結された客車や貨車がひっぱられ、次々に駅舎を出、ぐんぐん遠ざかっていく。  車輛の最後尾が小さくなっていく頃には、見送りや物売りのひとびとはほとんどホームから居なくなっている。あんなに大勢いて混雑していたのに、がらんと空いてしまう。  ひとの流れに逆らい、逆らい、息を荒《あら》らげて走ってきたウィリアムがようやくたどりついたのは、そんな殺風景なホームだ。  なにもない。  いや、あるにはあるのだが。  安全確認の手信号をかわす駅員たち、散らばったゴミを片づけるものたち、荷物を運ぶものたち。そんなものばかりで、ウィリアムが見たかったもの、あると信じて走ってきたものは、もうそこにはなかったのだった。  さっきまで鉄の塊《かたまり》のあった空間はがらんと空いて、ドーム天井からやたらに明るい陽ざしばかりが注いでいる。 「……ああ……」  襲ってきた虚脱感《きょだつかん》、喪失感《そうしつかん》に、膝ががくりとなりそうだ。  ウィリアムは片手で胸をおさえた。息が苦しい。心臓は、長距離を必死に走ってきたせいで、ごとごと壊れそうなほど轟《とどろ》いている。でも、間に合わなかった。間に合わなかった。もう少し、あと少しだけ速く走れたら。がんばったなら。  この手から、すり抜けていってしまう前に、掴むことができたら。 「……旦那さま……」  蚊《か》のなくような声がかかった。  振り向いてみた。花売りだ。  ウィリアムは知らなかったが、それは、さっきエマに花を売りつけたばかりの少女だった。さっきの成功に励まされ、こんどはちゃんと売り文句を言ってみようと決心して、いっしょうけんめいなけなしの勇気を掻き集めた少女だった。 「お、お花……か、買っ……」  少女は驚いてせっかくの口上を中途でやめてしまった。  大きな、立派な、背の高い、きちんとした恰好の上流階級の紳士さまが、こちらにいきなり手を伸ばして、しゃがみこんできたので。素敵にぴかぴかなズボンの膝が、ホームにくっついてしまいそうないきおいで。  花売りの少女にしてみれば、おとなの男が自分の上に倒れてくるかのようだった。無理に掴まえられて、なにかされるのではないかと、思わずとっさに身をひいてしまった。  掴まれなかった。ぶたれもしなかった。  気がつくと、紳士は、銀貨をさしだしていたのだった。  必死の、なんだか、懇願《こんがん》するような顔で。 「花をくれないか」  彼は言った。  少女はあわててうなずき、銀貨を受け取りに進み出、かわりに、花をひとつつかんで差し伸べた。おっかなびっくり伸ばしたままの手に、ふと、なにかが降りかかった。熱くて、濡れたものだ。  顔をあげると紳士の、ほとんど金色になってしまったみどりの瞳《ひとみ》が潤《うる》んでキラキラしていた。  花をみつめて。  泣いてる。  おとななのに、と少女は思った。男のひとなのに、へんなの。  知らなかった。  上流階級の紳士のひとでも、泣くことなんてあるんだ。わたしみたいな子の前で思わずぽろぽろ泣いちゃうほどに、つらいことや苦しいこと、悲しいことが、あったりするんだ。  そういうのは、上流階級のひとには、ないかと思ってた。  だって上流階級のひとたちは天使だから。天使には、悩みも、悲しみも、苦しみもないから。  それとも、天使でも、どこか痛くなることはあるのかな。  なんだかとても可哀相《かわいそう》な気持ちになったので、 「泣かないで、どうか、旦那さま」  少女は言った。  心をこめて。  もう、このひとが少しも怖くなかったから、平気で喋《しゃべ》ることができた。 「だいじょうぶ。この花があるから、もう、平気だよ」 「だいじょうぶ……?」 「だって、スズランの花ことばは、『幸福がもどってくる』っていうんですよ」  紳士の金色の瞳に、すうっと、なにかが戻ってくるのを、少女は見た。緑色の眼が、ぱちぱちと瞬きをして、生命を、力を取り戻したのだ。  そうだ。  だいじょうぶ。  あきらめない。まだ望みが途絶《とだ》えたわけじゃない。絶望なんかするものか。  きつと幸福はもどってくる。この手に。  この胸に。  ぽっかり空虚ながらんどうのようになっていた心に、いま、希望の灯《ともしび》がかすかにともったのを、彼女は目撃したのだった。  エマはまだ黙って目を落としていた。ただ手の中の小さな花を眺めていた。  と、バンと、いきなり音をたててコンパートメントの外扉が開き、息をきらした誰かが乗ってきた。  一瞬、ウィリアムが乗ってきたのかと考えてしまった。  そこにいたのは、むろん、彼ではなかった。さっきエマとまちがわれた、あの、すこしばかり騒々しい他家のメイドだ。 「あ、こんにちは!」彼女は言った。「さっきはどうもすみませんでした。うちの奥さま、とってもいいかたなんだけど、ちょっとそそっかしくって」 「こんにちは」エマは静かに会釈《えしゃく》を返す。 「まぁ、きれいな花。スズランですか」  気さくな性格らしく、陽気によく喋った。 「いいですよね、スズラン。知ってますか、今日スズランをプレゼントされたひとは、きっと幸福になるんですって!」 「幸福に?」 「だって、今日から五月でしょう。五月一日ですから」  新しい月。  聖母《マリアの》月。  もしかすると、とエマは思った。わたしにも、またいいことがあるのだろうか。 [#地から3字上げ]──第二巻 おわり── [#改丁]  『小説 エマ2』を書くにあたって[#地付き]久美沙織  第二巻を執筆するにあたって、またまた多数のかたにお世話になった。  この巻の目玉のひとつは、名高い「水晶宮《クリスタルパレス》」だと思う。かつて実在したこの魅力的な建造物に関して調べたり理解したりするにあたり、多くのかたにご協力をいただいた。『半身』『荊《いばら》の城(上下)』(いずれもサラ・ウォーターズ、創元推理文庫)の翻訳家であらせられる中村有希《なかむらゆき》さまは、ご自身で管理なさっておられるサイト『翻訳家のひよこ|』《※》[#※[翻訳家のひよこ] http://nakamura.whitesnow.jp]の中に『ビクトリアン・豆知識』のページを作っておられ、そこに水晶宮の項目があった。おそるおそる質問させていただいたところ、即座にさまざまな疑問に丁寧にお答えいただき、以後、たいへんに篤《あつ》く、さまざまな面で相談にのっていただくことができた。ちなみに、中村さまはコミック『エマ』をその時点で既にお読みであられた。  また(東京の片隅《かたすみ》で小さな設計事務所を営《いとな》む中年建築家)と自称なさるtonton1234さまの『三太・ケンチク・日記|』《※》[#※[三太・ケンチク・日記] http://tonton1234.ameblo.jp/entry-757604d5edb8e89deea48a9f5e7911df.html](建築にかんするウンチクが満載されています)にも、水晶宮とその建築家パクストンについて、専門家のかたならではの詳細な解説があり、たいへん参考になった。  大手前《おおてまえ》大学教授であらせられ、ヴィクトリア朝研究の我が国における第一人者であらせられるらしい松村昌家《まつむらまさいえ》さま(水晶宮について調べるとさまざまなところでこのかたのお名前をみつける)には『水晶宮物語──ロンドン万国博覧会一1851』(株式会社リブロポート、あるいは、ちくま学芸文庫)という御著作がある。ぜひとも欲しかったのだが、名著の誉《ほま》れ高《たか》きこの本は品切れ中である上に、古書業界でも誰かが売りにだすとすぐに誰かに買われてしまうらしく、どこにもぜんぜん在庫がない。あいにくこの巻の執筆に間に合う期間に手にいれることができなかった(なんなら貸してあげるよと言ってくださったかたは何名もおられたのだが)。筑摩《ちくま》書房は、ぜひ、いま、増刷なさると良いと思う。いまなら『エマ』ファンがきっと買うと思います(笑)!  この松村先生は、柏《かしわ》書房のサイ|ト《※》[#※[柏書房のサイト] http://www.kashiwashobo.co.jp/index.html]にて、『大英帝国|万華鏡《まんげきょう》 イラストレイテドロンドンニュース(ILN)に見る19世紀』という生記事を連載してくださっておられる。この連載の第一回めから第三回めまでがロンドン万博関連であった。せめて、ここを参考にさせていただいた。 『レディーヴィクトリアン』(月刊プリンセス)『Dear ホームズ』(ミステリー・ボニータ)を連載中のマンガ家、もとなお|こ《※》[#※[moton-naoko.com レディーヴィクトリアン・Dear ホームズ公式サイト] http://homepage2.nifty.com/moto-risu/]さまは、松村先生のその本なら持ってますから貸しましょうかと言ってくださったおひとりである。しかも、水晶宮についてとってもよくわかるサイトのありかを教えてくださった。はるか前世の昔、わたしがコバルト文庫の作家のひとりであった時代に、拙著にイラストを描いてくださって以来の友達なのだが、ヴィクトリア朝ネタで、マンガという同じ土俵《どひょう》で、もろにぶつかっているライバルのためであるのに、なんと心が優しいのだろうか。  小説家の五代《ごだい》ゆ|う《※》[#※[五代ゆうHP] http://www011.upp.so-net.ne.jp/godai/]さまには新刊『パラケルススの娘1』(MF文庫J)を送っていただいてしまったのだが、チラッとみたら、舞台がヴィクトリア朝で主要キャラのひとりがメイドさんだった。「あまりにネタがかぶってて、影響うけちゃうとヤバイからいまは読めん、ごめん」といったら「わたしはアレを書くとき、参考に『エマ』読んでました。マンガも小説も」と言っていただいてしまった。きゃー!  こないだは吉川良太郎《よしかわりょうたろう》氏まで、ヴィクトリア朝もののノワール新作を書くそと宣言していたし、この秋のファッションのトレンドのひとつは、びろうどやらレースやらを多用し渋めの色にキラキラなものをくっつけるヴィクトリア朝風だそうである。  ほんとうにたいへんなことになっているな、ヴィクトリア朝。  こうしてエマにかかわらせていただいたおかげで少しは皆さまと「話が通じる」ようになっておくことができて、まことに有難《ありがた》かった。それにしも、ヴィクトリア朝好きの世界は狭い。  わたしなどまだまだとてもとても勉強が足りないので、今回もなおドロナワ街道をさらに驀進《ばくしん》することとなった。一巻めの時に使った参考文献も引き続き使ったが、二巻めを書くために新たに手にいれた本もある。以下、列記する。 『ヴィクトリア朝の性と結婚 性をめぐる26の神話』度会好一 中公新書 『イギリス式結婚狂騒曲 駆け落ちは馬車に乗って』岩田託子 中公新書 『英国レディになる方法』岩田託子・川端有子 河出書房新社 『ホームズのヴィクトリア朝ロンドン案内』小林司・東山あかね 新潮社 『19世紀絵入り新聞が伝えるヴィクトリア朝珍事件簿 猟奇事件から幽霊諜まで』レナード・ダヴリース 仁賀克雄訳 原書房 『ヴィクトリア朝小説における父と子』松村昌家ほか 英宝社ブックレット 『デパートを発明した夫婦』鹿島茂 講談社現代新書 『マザーグースころんだ ロンドンとイギリスの田舎町』ひらいたかこ・磯田和一 東京創元社 『自由と規律 ──イギリスの学校生活──』池田潔 岩波新書 『パブリック・スクール 英国式受験とエリート』竹内洋 講談社現代新書 『英国パブリック・スクール物語』伊村元道 丸善ライブラリー 『階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見』新井潤美 中公新書 『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』新井潤美 平凡社新書 『英国貴族の邸宅』田中亮三・増田彰久 小学館 『図説 英国貴族の城館 カントリー・ハウスのすべて』田中亮三・増田彰久 河出書房新社 『十九世紀イギリスの日常生活』クリスティン・ヒューズ 植松靖夫訳 松柏社  ちなみに、資料というより「『小説エマ』を描くのにふさわしい気分に自分をもっていくため」に、せっせと読み返しまくったのは、ドロシー・L・セイヤーズのピーター・ウィムジィ卿《きょう》ものミステリー全般(『誰の死体?』『毒を食らわば』『五匹の赤い錬』など、創元推理文庫他)であった。これらの小説の舞台および成立年代は20世紀のしょっぱなであって、ヴィクトリア朝よりはちょっと新しい。だが、作者セイヤーズを含めその頃の英国人にとってのヴィクトリア朝は、われわれにとっての明治時代とか昭和初期とかのようなもので、まだ記憶に新しいところだ。「ヴィクトリア朝の常識のまま生きているご年輩のひと」も当時はまだ大勢おられただろうし、さまざまな事物が地続きなのである。よってヴィクトリア朝に「関係ある」記述、ヴィクトリア朝のリアルを匂わせることがらも多々でてくる。これがとても役に立った。  今回もまた村上《むらかみ》リコさんと北原尚彦《きたはらなおひこ》さんに査読をお願いした。北原さんには解説も書いていただくことになっている。  小説のかたちで描かれたこの物語が、原作漫画の愛読者のみなさまに、そして誰よりも森薫さんにとって、じゅうぶんに納得のゆくものであることを祈りつつ。  2005年9月15日 [#改ページ]  解説[#地付き]北原尚彦  ヴィクトリア朝は──いい。  かわいいメイドは──いい。  だからしてエマは──とてもいい。  昨今《さっこん》、我が国では「メイド」がブームになっているという。「萌《も》え」の街と化したアキハバラには「メイド喫茶」なるものが次々に開店し、大隆盛《だいりゅうせい》を極めているそうだ。生憎《あいにく》と、わたしは足を踏み入れたことはないのだけれども。  まあ「萌え」的に分析《ぶんせき》すれば、エマは「メイド」である上に「ガネっ子」(メガネをかけた女の子のこと。「メガネっ子」の略)でもあるわけで。もう、二重に「萌え要素」を兼《か》ね備《そな》えているのだから、無敵この上ないのも道理と言えよう。  しかしエマは、単に人気取りのためにメイドに設定されているわけでも、ガネっ子であるわけでもない。ヴィクトリア朝という時代がための、身分を越えた恋が展開されるがゆえにエマはメイドであるのだから。そしてメガネの方も、ケリー・ストウナーとの交流や、近眼であるがゆえのさまざまな展開など、しっかりと設定が生かされている。このメガネ関連にしても、メガネだけでなくコンタクトもありふれたものとなった現代とは異《こと》なる、ヴィクトリア朝ならではのエピソードばかりだ。  そう、全てはヴィクトリア朝という時代背景によってこそ、エマの物語は成立しているのだ。ヴィクトリア女王万歳《ばんざい》。大英帝国万歳。  というわけで、ヴィクトリア朝好きの皆様、待望の『小説 エマ』第二巻です。もしかしたら、ヴィクトリアンの小説は好きだけれど、コミックはちょっと、と原作は敬遠していたものの、これは小説だから、と手に取られた方もおられるかもしれない(でもそういう方は『エマ・ヴィクトリアンガイド』だけは読まれたかも)。そういう逆転の構図ももちろんアリだが、これでエマの世界が気に入られたという方は是非《ぜひ》、この機会に続けて原作の方もお読み戴きたいものである。 『小説エマ』は、ヴィクトリアン小説──これにはヴィクトリア朝に書かれた作品とヴィクトリア朝を描いた作品と二種類あるわけだが──のファンのお眼鏡にかなう作品にしっかり仕上がっている。そしてもちろん、原作コミック『エマ』のファンにも。  なにせ、小説化を手がけたのが、女心を描かせてはピカイチの久美沙織《くみさおり》氏である。エマの微妙な心情を、コミックではなかなか表面に現れにくいところまでしっかりと活写してくれている。  本書『小説エマ2』で扱っている物語は、原作コミックの概《おおむ》ね二巻に当たる部分。この先、実は色々と事件が起こるわけで。六巻なんかもう、タイヘンなことになっちゃってます。……という次第なので、小説版しか読んでいないという方、原作のコミックを是非どうぞ。話の続きが分かりますぞ。  コミックはもうとっくに読んでいるよ、という方も、小説版ならではの部分をお楽しみ戴きたい。たとえば、一巻では「序」及び第一話の冒頭は小説オリジナルのパートだ。原作ではウィリアム坊っちゃんがケリー・ストウナー宅を馬車で訪《おとず》れるシーンから開幕するが、小説版ではそこに至るまでもしっかりと描かれている。正に、小説版ゆえの「ボーナストラック」である。  また、それぞれのキャラクターが、なぜ、そこでそのような行動を取るか、絵だけでは深い意味までは分《わ》かり難《がた》い場合もあるけれども、小説ではしっかりと解説が加えられる(それも久美さん流の解釈だったりするのがまた楽しい)。  実は、小説版は三巻以降のスケジュールが確定していないらしいのだが、是非とも早く出版して戴きたいところだ。なんせ三巻以降も、小説版ではどう描かれるのだろう、と大いに期待してしまうシーンがたっぷりとあるのだ。四巻のあそことか、五巻のあそことか(個人的なシュミ丸出しになるので細かく述べないでおきます)。いや待て待て、小説版は、原作コミックにもないシーンが描かれてこそのノヴェライズ。お色気たっぷりのドロテア(原作を読んでない方ごめんなさい、これから出て来るキャラクターです)と、御夫君の濃密〜な×××シーンとか。いやいや、たまりませんな(↑突っ走る妄想)。その際は久美さん、頼みましたよ。  そして本書には、ヴィクトリアンな情報が、原作以上にこれでもかと詰め込まれている。たとえば、エマとウィリアム坊っちゃんの初めての逢引《あいびき》の場所となった、水晶宮クリスタル・パレス。この建物がまた、ヴィクトリアン者にはツボな代物《しろもの》である。作中で丁寧に解説されているので詳述《しょうじゅつ》は避けるが、万博の会場として建設され、その後、移築して保存されたもの。後に焼失《しょうしつ》しているだけに、ヴィクトリア朝好きのロマンをかきたててくれる。原作ではウィリアム坊っちゃんがエマに説明しているセリフだけだが、小説版では情報量が圧倒的に増しているのだ。  実はこのわたしもヴィクトリア朝を舞台にした小説を書いているのでよく分かるのだが、当時の出来事とか、食べ物とか、衣服とか、細かいことが知りたくて色々と調べ始めて、調べれば調べるほど、どつぼにハマってしまったりするのだけれど、調査の過程で意外な事実が分かった瞬間などが、楽しくて仕方がないのだ。原作者の森薫《もりかおる》さんも、小説版の作者久美沙織《くみさおり》さんも、やっぱりヴィクトリアン調査にハマっているのが作品の端々《はしばし》から読み取れて、ついご同情申し上げてしまう。  このヴィクトリアン考証の作業、楽しいけれども結構難しい。この時代にはあったよな、と思い込みで書いてしまうと、大間違いをしでかしてしまう。例えば、わたしは切り裂きジャックについて扱った作品を発表しているのだけれど、初稿の段階では、うっかりタワー・ブリッジを出してしまっていた。タワー・ブリッジは一八九四年に完成したものなので、一八八八年発生の切り裂きジャック事件の時点ではまだ存在しないのだ(幸いにして、途中で気がついて直したけれども)。  だから、この考証をいい加減にすると、とんでもないことになってしまう。これまでに読んだヴィクトリア朝を描いた作品の中には、「なんだこりゃ」とか「ちがーう!」と思わず嘆《なげ》いてしまう代物も幾つかあった(あえてタイトルは伏せますが)。  わたしなど、ヴィクトリアンについて知りたいばかりに、ヴィクトリア朝のポルノにまで手を出している。まあ、こういった裏の小説たるポルノにこそ、表の小説たる文学には描かれない当時の風俗(性生活とか、下着とか、トイレとか)についての描写があったりするので、実は資料性が高かったりするのだが。そう言えば、ポルノにも「上流階級の男性とメイド」という構図はよく出て来る。もちろんポルノだからよろしい仲になる流れだけれども、そこはやっぱりヴィクトリア朝、身分を越えて結婚、という結末にはなかなかならない。メイドはもてあそばれただけ、というパターンが多い。エマの場合、ウィリアム坊っちゃんが真面目《まじめ》な性格で本当に良かったというわけである。  ヴィクトリアン・ポルノは万人《ばんにん》にオススメというわけにはいかないが、『小説エマ』をお楽しみいただいた方には是非一度、手に取ってみて戴きたいのが、アーサー・コナン・ドイルの書いた、シャーロック・ホームズが活躍する探偵小説である。百年かけて熟成されたクラシックなこの探偵小説は、芳醇《ほうじゅん》な酒のごとき香りを味わわせてくれること間違いナシ。わたしがヴィクトリア朝にハマったそもそもの原因が、このシャーロック・ホームズだったりする。 「エマの歩いたヴィクトリア朝の世界を、映像で見てみたーい!」という方には、英国で制作されたTVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズが一番のオススメである。それまでは時代背景を現代に持ってきたり、設定がいいかげんだったりするものも多かったのだが、これは原作の雰囲気をそのまま映像化したことでシャーロッキアンからも高く評価されている作品。森薫さんも、久美沙織さんも、これはしっかりとご覧になっているようである。  探偵小説ついでの余談になるが、『僧正殺人事件』などの有名な作品を書いたヴァン・ダインという人は「探偵小説の二十則」というものを考えたのだが、その中に「使用人が犯人であってはならない」という項がある。つまり、エマを犯人にしてはいけないわけですね(笑)。いや、この二十則が作られたのは一九二八年で、それ以前に書かれたシャーロック・ホームズ物の中には、メイドを犯人にした作品もある。どれとは言いませんが。  また、ヴィクトリア時代当時ではなく、最近書かれたヴィクトリアン物の推理小説では、サラ・ウォーターズの『半身』および『荊《いばら》の城』(創元推理文庫)なぞは、かなりオススメである。エマの世界が好きな人にはグッとくることうけあい。 『エマ』の人気は最近ますます高く、アニメ化されて、テレビ放映もされた。『小説エマ2』は、アニメの丁度後半部分に相当する(つまりアニメのラストは、丁度本書のラストと同じ)。かようにメディアを超えてエマの世界は展開されているわけだが、アニメは未見という方、DVD−BOXも出ているので、是非どうぞ。本の形をしてないと興味はない──という方。おっとっと、ご存知ないんですかい。BOXには特典の冊子が付いておりますぜ。さあ、どうされます?  ヴィクトリアン者を長年続けてきたわたしは、それが仕事の一端《いったん》となり、遂《つい》にはこの 『小説エマ』の解説を書かせて戴くまでになった。その『エマ』のおかげで、これまで以上に「ヴィクトリア朝に至る病」の症状が悪化したような気がする。  原作コミックも、六巻が刊行されて物語はいよいよ佳境に入っている。これからもますます『エマ』ワールドからは目が離せそうもない。 [#改ページ]  あとがき  小説「エマ㈪」をお買い上げ頂きありがとうございました。  普段の漫画とはタッチを変えつつ一枚絵に仕上げるというのは中々難しいものでしたが、あまり描く機会のない絵を色々と描けたノはとっても楽しかったです。  この本が皆さんに楽しく読んでいただけると良いなと思っています。 [#地付き]森薫 [#改丁] 底本:「小説 エマ2」ファミ通文庫 (株)エンターブレイン    2005(平成17)年11月10日 初版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※各所にある解説文は入力者注の表記法方にあわせ再校正してあります。